昭和三年、亨吉は「世界思潮」に「安藤昌益と其著自然真営道」を発表した。昌益を語るに、漸う自ら筆を執ったのである。
「安藤昌益の名が文献に見(あらわ)れたのは、宝暦四年刊行の新増書籍目録巻二に、其の著書である孔子一世弁記二冊と自然真営道三冊が掲載されているのが最初であり、また最後であったろうと思われる。…すでに出板になったものとすれば、誰か読んだ人もあったろうに、その後徳川時代をすぎ明治に入るまでも、安藤の名が人の口に上らないところを以て見ると、彼の著述は当時何らの反響を起こさずしていつしか忘れられてしまったものと思われる。もしそのような運命に陥ったものとすれば、あの時世大方読む人が文章のまずいのと分かり難いのに呆れて、思想の卓越した所を理解するまでに注意して見なかった為と取らざるを得ない」…
「安藤は畢生の精力を傾注した思想の結果を百年の後を期して書き残すのであるとの容易をもって筆を操ったのであるから、何ら憚るところなく、最も大胆なる叙述をなし得たるため、…同情に駆られ、或いは義憤に駆られて忽ち雄弁となり、古来聖人と尊ばれ英雄と崇められたる人物を拉し来って叱責罵倒の標的となし、気焔万丈、全く当るべからざる勢いを示し、極端なる場合には敢然死を決して痛烈肺肝を貫くの言を為すのであった。」…
ここまで、まだ安藤昌益の思想の中身を記していない。何が狩野亨吉や渡辺大濤の心を掴み、吉野作造に強い興味を抱かせ、また江渡狄嶺や中里介山、高村光太郎を心酔させたのか。また戦後、カナダの公使で歴史家のハーバート・ノーマンに、何が「忘れられた思想家」安藤昌益を書かせたのか。その「忘れられた思想家」によって世界の思想哲学界に昌益の名が知られ、ソビエト連邦の思想史学者ラードゥリ・ザトロフスキーに、何が「18世紀の唯物論者 安藤昌益」を書かせたのか。また現在、昌益の研究が、中国、韓国、フランス等でも行われているのはなぜなのか。
具体的なことは後述するが、大雑把に書けば、安藤昌益は世界で最初の共産主義思想(農本共産主義、原始共産主義)を著述したからである。世界で最初の軍備の廃絶を唱えた平和主義者だったからである。
十八世紀ヨーロッパのどんな近代革命思想よりも徹底した人間平等思想、男女同権思想を語ったからである。徹底した封建身分制の否定、君主制の否定を唱えたからである。農民革命思想を唱えたからである。
昌益は、サン・シモンより早く、またロバート・オーエンやフーリエより早く、マルクスやエンゲルスより百年早く共産思想を唱えた思想家だったのだ。福沢諭吉より百年以上も早く、平等思想を唱えていたのだ。しかも徳川の封建制度が最も強固な時代である。露見すれば容赦なく「身首所を異にする」獄門か、磔刑の時代である。
昌益が「自然真営道」書き上げた同時期、ジャン・ジャック・ルソーが「人間不平等起源論」を著し、それはフランス革命に大きな影響を与えた。
ルソーが自然を「無秩序」と考えたのに対し、昌益は自然を「秩序」と考えていた。現在、どちらが正しいかは明らかである。自然は秩序なのだ。
加えて鉱毒問題にも触れた昌益が、エコロジストの先駆と言われる由縁である。H・ノーマンの言うとおり、昌益は日本で最もオリジナリティのある思想家だったのだ。
昌益は「忘れられた」のではなく「地に潜み」、そのまま「埋もれていた」のだろう。彼は自らの思想が百年後の思想であることを知っており、また穏やかな平和主義者でもあった。彼の思想は革命思想であったが、過渡期を「邑政」と呼んで、門人たちには時期にあらずと行動を慎ませ、その著作を門外不出とさせたのだ。
昭和五年、亨吉の弟子にあたる渡辺大濤が「安藤昌益と自然真営道」を発表した。それも、時の検閲を考慮した実に慎重な内容である。こうして昌益は、あの碩学・狩野亨吉が「トンと分からぬ」と首を傾げたままの謎の人物なのであった。
亨吉の執拗な追跡の苦労も報われず、彼は昭和十七年の暮れも押し詰まったころ、窮迫のうちに七十八歳で亡くなった。死因は胃潰瘍とされている。
「トンと分からぬ」昌益の研究が大きく動き出したのは戦後になってからである。それは敗戦後の国家の財政難と、そのために導入された財産税によって顕れたのである。
昭和二十五年、八戸の旧藩主南部家は、財産税納入に迫られて八戸の屋敷を売った。土蔵にあったものの売却や、三八城神社の宝蔵庫に預けていた藩日記なども行き場を失っていた。
藩日記の処置に困った南部家は、郷土史や民謡民俗の研究家である地元の小井川潤次郎や上杉修らに相談した。彼らは八戸市に買い取ってもらうのが妥当とし、市に話を持ち込んだが、市は財政的な余裕もないと、にべもなく断った。
「その返事を聞いた南部家の当主南部利克は色をなして、くず屋を呼べ、とおっしゃった。そんなことをなさらず上杉が頂きますからくず屋にお下げにならないでくださいとお願いしたら、上杉が必要なら上杉にやる、しかし量が多いよというお話であった」(上杉修「八戸と安藤昌益」)
上杉はリヤカー二台で自宅と三八城神社を何往復もさせ、「ついでに文書も持って行け」と、これまた膨大な文書類も持ち帰った。また南部家から経師屋に払い下げられた文書類も買い戻し、そのため当時としては五万円もの高額を捻出されたらしい。そして郷土史家の野田健次郎らと、その膨大な文書の整理に汗を流すことになる。そして野田が、藩日記に昌益の名を見つけたのである。
「八月九日に射手病気につき御町医安藤昌益、去る六日より療治申付く」
櫛引八幡の祭礼に例年通り流鏑馬の神事を奉納するため、遠野の南部家より三人の射手がやって来たが病気となってしまい、その治療に町医の昌益に命じたというのである。さらにその八月十五日、射手たちは全快し、薬礼として金百疋が藩から昌益に差し出されたが、彼はこれを辞退したという記事が見つかった。また翌年、殿様の縁者である家老の中里清右衛門が倒れた際、五人の医者と二人の鍼医が治療に当たったが芳しくなく、請われて昌益が呼ばれ、その治療によって全快したという。
その後も八戸での発見が続いた。先に、昔の人は紙を大事に使用し、再利用もすると書いたが、この発見もそうである。藩の「御用人所日記」(宝暦十一年から三年間の記録)は、一度使った古紙を裏返しにして使用していたが、野田健次郎がそれをひっくり返して見ると「宗門改帳」が出てきた。その中の「門徒願栄寺 忠兵 二十七」の隣に、安藤昌益の記録を発見したのである。
「一、同宗同寺 昌益 四十四 有人〆五人内男二人女三人」野田はこの宗門改帳が延享三年(1746年)のものであることを突き止めた。この年彼は四十四歳だったのである。ここから昌益の生年が元禄十六年(1703年)であることが確定された。五人家族で、息子が一人、妻と娘が二人いたことも分かった。また、この記録は、借家住まいの者には借家とあり、昌益にはその記載がないことから、彼が持ち家に住んでいたことも知れた。住まいは十三町にあり、本丸に近い町の中心街で開業していたわけである。
願栄寺は真宗である。後年、秋田の二井田村(現大館市)の温泉寺に彼の墓が発見されたが、温泉寺は曹洞宗である。当時の宗門、信仰はさほど問題ではなかったのである。ここで当時の寺請制度(寺檀制度)について触れておきたい。
日本の仏教は檀家制度にこそ、その最大の特長がある。檀家制度は過去帳や人別帳、宗門改帳等、世界でも比類のない戸籍管理を実現させた。
「戸籍」による人民管理は、古代中国で編み出され、朝鮮半島を経て、渡来人によって古代日本にもたらされ、彼らの律令制下「戸」を単位として領土内の全ての民を、その身分と共に基本台帳に登録し、一元管理しようとした。
律令国家とはかなり堅固な管理国家だったのだ。当然、まつろわぬ人々、蝦夷・東日流(つがる)とか海民、移動する民は、この制度に捕捉されていない。
その後の武士の台頭、戦乱、戦国の世にこの制度は消滅し、民の流動を招いた。豊臣秀吉は「検地」とともに、総労働力の把握を図った。注目したのは、葬祭供養を媒介として寺院と信徒の間に形成されつつあった半永続的な結合関係であった。寺院は檀那寺と呼ばれ、信徒の家は檀家と呼ばれていた。これは広範に形成されつつあった制度だった。檀那寺に信徒各家の家族数を把握させればよい…。
徳川家康はこれを引き継ぎ、これをキリシタン禁制にも利用したのである。檀那寺に檀家の「宗旨」を証明させる「寺請制度(寺檀制度)」を公布したのだ。こうして「宗門改め」と「寺請制度」はセットで強制化された。
これまでの檀那寺と檀家の純粋な信仰関係・人間関係から、権力による「宗門改帳」作成が義務づけられ、「過去帳」「人別帳」と言う、世界に比類なき「戸籍制度」が確立した。この管理が寺社奉行・代官の主要役務である。権力側は民衆統治に都合良く、寺院側はお布施収入などが安定的に約束され、安定した寺院経営が可能となった。これも仏教が本来の魂の救済、教義や思想哲学の深化から堕落したと言えなくはない。
寺請寺院(宗門寺)は「宗門改め」の請け印とともに、檀家の人々に対し、結婚・移転・奉公などに際して「寺請証文」を発行するのである。この「宗門改帳」に洩れるとキリシタンの疑いがかけられて、獄門磔にされるやも知れず、「寺請証文」が無いと結婚も移転も奉公もままならぬのである。「過去帳」「人別帳」に洩れるということは、無宿人・穢多非人の扱いを受けるのである。無宿人とは、故郷の過去帳・人別帳に記載がない人間のことを言うのだ。まっとうな人間は、必ずどこかの檀那寺を決め、その寺に登録しなければならなかったのである。
さて、昌益の名が突如「藩日記」に登場し、それ以前の記録がないことから、彼が他国から八戸にやって来たことが推察された。本丸に近い良い場所で開業し、殿様の縁者の家老の治療や、弟子たちに上級藩士や町の有力者もいることから、誰か有力者の後見や推薦があったことも推察される。しかもなかなかの名医の評判もとっていたものと思われる。
この有力者は、藩の御側医である神山仙益で、彼が江戸詰めのおりに昌益と知り合い、昌益に八戸移住を勧めたのではないかと推察されている。この神山仙益の息子、神山仙確(仙庵)は、昌益の高弟となる。仙確も御側医であり、彼も江戸詰めの勤務を果たしている。
狩野亨吉が「自然真営道」の表紙の裏張りから見つけ出した年始状の弟子たちの中に神山仙庵の名があり、無論「良演哲論」「大序巻」から推せば、彼は昌益の一番弟子だったのである。
昌益の八戸の弟子として判明しているのは、医師の関立竹、医師の上田祐専、上級藩士で代官や御用人を勤めた福田定幸(福田六郎)、上級藩士で祐筆から勘定頭に出世した北田忠之丞、神職の高橋栄澤(高橋大和守)、神職の中居伊勢守、巡見使宿屋の中村信風(中村右助)、昌益の隣人で酒屋・船宿の中村忠平、酒屋と質屋の中村忠兵衛、嶋盛慈風(嶋盛伊兵衛)らである。
江戸の弟子は本町・金座近くに住む村井中香、京都が明石龍映、有来静香、大坂が志津貞中、森映確、奥州須賀河が渡辺湛香、松前が藩士の葛原堅衛である。名前が不明な者に、元長崎通詞の京人某、住所が不明な者に、北田静可(北田静)、澤本徳三郎、村井彦兵衛、道右衛門、薬種屋の大塚屋鉄次郎、仲谷八郎衛門、およ、安田五郎兵衛、藤右門がいる。
安藤昌益は延享元年(1744年)頃から宝暦八年(1758年)頃までの約十五年を八戸の町医者として過ごした。話は飛ぶが、その後ふるさとの二井田村に帰っている。安藤家の当主であった兄の孫左衛門(絶道信男)が亡くなったため、その安藤家と孫左衛門の名を継ぐためである。
兄で当主の孫左衛門の死を八戸の昌益に伝え、名家であった安藤家を継ぐように勧めたのは誰であったか。おそらく二井田の肝煎や郷中の長名(おとな)百姓たちであったろう。昌益は妻や子らを八戸に置いたまま、単身二井田に帰って行ったのだ。そして五年ほどを故郷の二井田で農民として過ごし、新たに門人となった肝煎や長名百姓たちに看取られて亡くなったのである。
これらのことが判明したのは昭和四十九年のことである。小学校校長を定年退職した後、大館市の市史編纂に携わっていた石垣忠吉が、旧家である一関家の古文書を調べている際に発見した。それは昌益の晩年の記録であった。
石垣忠吉は一関家の段ボール箱の中から、不思議な白文の漢文で書かれた古文書を取り出した。「石碑銘」と記してある。白文なのでまことに読みづらいが、その三十三行に及ぶ文字の中に、「直耕」「転真」という言葉が頻出している。その最後の三行は「宝暦十一年 守農太神確龍堂良中先生 在霊 十月十四日」で終わっている。土地の農業に多大な貢献をした者を「守農太神」と頌えているらしい。石垣は郷土史家として地元の古蹟に知悉している。彼にはそんな石碑も神社も記憶にない。
それからしばらく後、今度は「掠職(かすみしょく)手記」という古文書を発見した。掠職とは、仏事神事万般に渡る取締役のことである。この手記を書いたのは掠職を兼ねた、二井田の神職(修験)千寿院である。
「一当所孫左衛門と申者、安藤昌益目跡御座候処昌益午之年十月十四…」
この村の孫左衛門と申す者は、安藤昌益の跡継ぎでございます。昌益が午年(宝暦十二年)十月十四日に病死しましたので、孫左衛門は昌益三回忌を申年(明和元年)十月十三日の晩から十四日朝まで、当寺温泉寺で法事を行いました。…温泉寺の住職が安藤家に赴いて法事をすませた翌日、村人がやって来て、孫左衛門の家では魚料理を食らい、飲み歌い踊ったりしているという。孫左衛門を呼びつけ、「親の三回忌に精進を破り魚料理を饗応するとは、仏に対してけしからん!」と叱責すると、「そんなことするわけがありません」と言う。さらに問い詰めると「私は食べていません。親の門人衆がたべました」と言う。住職は「以前から村に奇怪な噂が広がっている。お前の屋敷裏に昌益の墓が建てられているというではないか。昌益の墓なら当寺にあるのに、どうしてまた一基建てたのか」と問うと、「私は知りません。門人衆がやったことです」とのらりくらり。その墓を検分したところ、人の背丈ほどの石碑で、「守農太神良中先生」とあり、下に細かな顕彰文が刻まれていた。しかも石碑は安藤家の土地からはみ出し、隣地の千寿院守護地である伊勢堂社地に入りこんでいる。これには千寿院も激怒した。しかも掠職の許可なく「神号」を刻んでいるのである。昌益は少年の頃に村を出て、八年前に何十年ぶりかで帰村すると、村人たちに何やら怪しげな教えを広めている。何人もの村人たちが彼の門人となって、確龍堂良中先生と呼んで尊敬し、その邪な教えのためか、村人たちは神事にも仏事にも不熱心でいい加減になり、寺社はその収入を脅かされている。ここでガツンととっちめてやらねばならん。昌益の門人衆の名前を提出せよ!…安藤孫左衛門ののらりくらりが続き、彼の縁者であり村の長名(おとな)でもある仲谷彦兵衛も呼ばれた。しかしのらりくらり。ついに村の肝煎(名主)小林与右衛門も呼ばれるが、これものらりくらり…。千寿院の修験は激高し、こうなっては郡奉行へ訴えるといきまいた。すると肝煎の与右衛門は「郡奉行への御訴訟は如何なものでしょう。そんなことをすれば、一村丸潰れにならぬとも限りません」と穏やかに脅迫し、「いま暫しのご猶予を。門人衆を説得いたしましょう」と引き下がった。
ついに昌益の門人衆十人の名が提出された。いずれも今も続く旧家である。この古文書を保管していた一関家の先祖である一関重兵衛、一関市五郎、阿達清佐衛門、安達清吉、中沢太治兵衛、平沢専之助、中沢長左衛門…等この十名は村の代表者に過ぎない。実は肝煎の小林与右衛門や長名(おとな)たちをはじめ、二井田の一村の殆どが昌益の門人になっていたのである。
この「碑(いしぶみ)騒動は一ヶ月続き、門人衆たちの全面的敗北に終わった。掠職の修験と要求を飲んだのである。「一は、守農太神碑を早々に打ち壊すべき事、二、跡地を元通りに地ならしすべき事、三、安藤孫左衛門を郷払い(村から追放)に処し、その屋敷を取り壊すべき事」であった。肝煎、長名をはじめ、村の主立った門人衆の十八名が連署して、それに従う旨の誓約書を出している。そして門人衆をはじめ、村人たちはあらためて千寿院と温泉寺に金や物の寄進をし、碑騒動は穏便に解決をみた。碑は粉々に打ち壊され、整地もされたが、孫左右衛門は郷払いされず、屋敷もそのままだったようである。この騒動は城代の耳にも達し、一ヶ月後、孫左右衛門を帰村させるよう命じられた。しかし、孫左衛門はずっと村にいたのである。
さて、昌益は八戸を去り、二井田に帰村後、跡取りの絶えた安藤家の当主として孫左衛門を継いだ。その後、親戚筋(仲谷彦兵衛の仲谷家であろうか)から養子を迎え、自分の目跡(もくせき)とした。それが、しぶとく、のらりくらりの孫左衛門である。
昌益の実子・周伯(秀伯)は、八戸で町医を継いでいる。昌益が家族を八戸に残したまま去って半年後に、周伯が勘定頭の北田忠之丞を治療した記録が「藩日記」に残されている。北田忠之丞は昌益の弟子の一人である。昌益が亡くなったという報せを受けてから百日後の周伯の動静も「藩日記」に伝わる。
「宝暦十三年二月二十九日 一、御町医安藤周伯、母召し連れ上方へ罷り登り候節、所々の通証文、成し下されたき趣、願い出づ」「三月朔日 一、御町医周伯、勤学上京の儀、勝手次第たるべき旨、仰せつけられ、これ随いて母召し連れ候に付き、所々の御証文、願い出、成し下さらるべき旨、御町奉行へ仰せ付けらる」
周伯は昌益の医業を継いだが、その思想を継ぐ意志はなかったのだろう。またこの記述から、多くの研究者が、昌益の妻は上方、京都の版元・小川屋の出ではなかったかと推定している。近年の研究では安藤周伯は京都の山脇東門(山脇東洋の次男)に弟子入りしていることが分かっている。そしておそらく、二人の娘はすでに八戸かその周辺に嫁したものと推察されている。
さて、「掠職手記」に登場した肝煎の小林与右衛門は実に知恵のある人であったが、彼の後に肝煎になった仲谷八郎右衛門も、胆力と知力の人だったようである。彼は代官に理路整然とした陳情書を提出した。村の惨状を訴え、このままでは一村丸潰れになると脅し、平均御竿入れ(検知検分)の実施と、年貢率を下げるよう要求したのである。
一村丸潰れに驚いた城代は陳情通り平均御竿入れを行い、年貢率を下げた。二井田の村人たちはこの仲谷八郎右衛門の功績を忘れず、百年後の明治になってから「改竿院」の院号を送って感謝している。この仲谷家の子孫が三年前に亡くなった俳優の仲谷昇である。
さらに蛇足ながら、三十年近く前、私が書いた「ルドルフ」という戯曲で、ルドルフを演じるに最も相応しい役者は仲谷昇ではないかと、秘かに思っていたものである。そう言えば、彼も競馬が大好きだったなあ…。蛇足の蛇足であった。
「自然真営道」第十四巻表紙裏から、仲谷八郎衛門、およの名が出ている。この人物は仲谷八郎右衛門と同一人物だろうか。
話をもどす。碑騒動の温泉寺に昌益の小さな墓が発見された。寺から過去帳も発見された。この墓には面白い(怪奇な)逸話もある。安藤家は今も続いている。
安藤家は平安期に二井田に入った開拓の祖と伝えられる豪農の家である。昌益の父の代に、零落して家族は離散、昌益もふるさとを離れたのである。一人残って落魄の本家を継いだ兄孫左衛門(絶道信男)には子供が無かった。その死後、名家である安藤本家を継ぐため、昌益は一人ふるさとに戻って来たのである。
昌益には人を惹きつける魅力があったのだろう。彼は二井田でも医業をしていたと思われる。ときに無料で医療を施したのかも知れない。また村と村人たちに農業指導などを通じて実利を与えることができたのだろう。にこにこと穏やかで人柄も良く、問えば誰もが驚嘆する膨大な底知れぬ識見をみせ、身振りをまじえた話も面白く、意表をつく論理を展開する。
彼が発するその大胆な意見は、実は村人たちが秘かに心奥に抱いていた世の中の制度に対する疑問や怒りを、言葉で明確に概念化し、思想として昇華したものだったのであろう。村人たちは昌益に魅了され、やがて一村丸ごと門人となったのだろう。神を否定した昌益だが、村人は彼を「神」と頌えたのだ。