地に潜む龍

私が安藤昌益の名を初めて知ったのは、高校の歴史の授業だった。その教科書には「農本主義」と記されていた。今でも覚えているのは当時の試験問題である。左の1~5に新井白石、林羅山、吉田松陰、安藤昌益…等の名が並び、右のア~オにその思想や著書・事績が並んでいる。それぞれ照応し、該当するものを結ぶ(選ぶ)のである。例えば4の安藤昌益はイの農本主義というふうにである。学校が教える知識はその程度であって、それは大学の授業に於いてもさほど変わることはない。
二十歳を過ぎたら、知識とは自分から学ぶものなのだ。やがて岩波文庫の「統道真伝」上下巻を古本屋で買い、初めて昌益の思想の中身を知った。以来、私にとって昌益は、最も天才的な日本人なのである。
何しろ哲学と文学の碩学、あの狩野亨吉(こうきち)ですら「とんとわからぬ」と首を傾げた謎の人物なのである。戦後、連合国側の一員として来日したカナダの外交官で歴史家のハーバート・ノーマンが、「忘れられた思想家」を書き、昌益は世界の思想哲学界に知られることになった。しかし昌益は狩野亨吉が発掘するまで「埋もれていた」のであり、その後も一部の研究者やその思想の礼賛者を除けば、ほとんど知られることがなかったのである。昌益は「忘れられた」のではなく「埋もれていた」のだ。いや、私は昌益は自らの意志で「地に潜んだ」のだと考えている。

狩野亨吉は明治二十八年に歴史の中に埋もれていた志築忠雄を発掘し、「数学物理学会」に発表した。既に何度か書いたが、志築忠雄は江戸前期の人、長崎出島の通詞であった。ほとんど知られていないが「鎖国」は彼の造語である。彼はニュートンやケプラーの法則を日本に初めて紹介した男でもある。
この博捜の大学者、第一高等学校校長、狩野亨吉博士の元に、常日頃出入りしている本郷追分町の古書肆・田中清三書店が、大きな風呂敷包みを背負ってやってきた。「先生、面白い本が入りまして…何て申しましょうか、その、不思議な書物でしてね、書いた人物も初めて聞く名前で、どうもその、訳が分からんのですが…これは刊本ではなく、稿本(原稿)だと思うんですが…」「置いていきなさい。後で見ておこう」と、亨吉先生はいつものように、さほど関心もなさそうに応えてから、大きなクシャミを連発した。

それが「自然真営道」と書かれた和綴の稿本九十三冊である。明治三十二年のことである。亨吉が読んでみると、漢文ではあるが語法も用法もデタラメで、誤字多く、意味不明の造語や当て字で書かれた実に難解な文であった。おそらくこうだろうと推し量りながら読んでいくと、実に破天荒な内容である。その「大序巻」に「宝暦五年、確龍堂良中見」とある。「見」とは「著」の当て字らしい。確龍堂良中が見(アラ)わすと読めた。宝暦五年と言えば将軍吉宗の時代である。亨吉は「これは狂人が書いたものらしい」と思った。
「狂人の書いたものと思われますが、先生の研究に何か役立つかも知れません…」と、彼はをハンカチを口に当ててクシャミ抑えながら、これを東京帝大の精神病学の呉秀三博士に貸した。呉は日本の精神病医学の鼻祖であり、松沢病院の初代院長となった人である。
亨吉は夏目漱石の親友であった。ロンドン留学から帰った漱石を一高の英語教師に誘ったのが亨吉である。漱石の小説には、彼をモデルにした人物が登場する。「我が輩は猫である」の苦沙彌先生である。亨吉はいつもクシャミをしていたらしい。おそらく彼の周囲に堆く積み上げられた古書のせいであろう。私も神保町の古書店等に入ると、クシャミが止まらなくなることがある。
また「それから」の長井代助も亨吉がモデルだと言われている。漱石研究者の間では、「それから」の代助の三角関係の相手である三千代のモデルも特定されているらしい。…狩野亨吉は一代の畸人である。彼については、すでに青江舜二郎の「狩野亨吉の生涯」や、鈴木正の「狩野亨吉の思想」などの著作がある。この大学者、奇人、変人については、またあらためて書きたい。先ず、安藤昌益にもどる。と言うより、しばらくは亨吉の足跡に沿いつつ昌益について語ることになる。

亨吉はやはり「自然真営道」の確龍堂良中のことが気になった。徳川の封建支配体制が最も強固な十八世紀の半ばに、あんな激越な思想を吐いた男がいた…。亨吉は呉博士から本を返してもらうと、あらためてじっくりと読み込みはじめた。やがて、これはとんでもない天才だと確信するに至った。しかも、宝暦五年に刊行することが不可能であっただけでなく、明治の世にも公開することができぬ代物だったのである。亨吉の秘かな研究が始まった。
亨吉は独身で、父の狩野良知と二人暮らしだった。狩野家は久保田(秋田)大館の代々学者の家柄である。亨吉も久保田城内の三の丸で生まれている。良知は最後の昌平坂学問所(昌平黌)の出であり、端倪すべからざる学者であった。亨吉は良知に「確龍堂良中」の「自然真営道」の話をした。
「ふむ、その確龍堂の確龍とは、易経の『確乎不可抜者其潜龍乎』から付けた名前ではないかな」と言った。さすがに昔の人は学が違う。「確乎として揺るがぬ信念を持つ者は、それはまさに地に潜む龍である」と言うのである。確かに安藤昌益は「地に潜んだ龍」であった。

日露戦争後、亨吉は京都帝国大学文科大学の初代学長となった。彼は在野の支那学者・内藤湖南や幸田露伴を教授に推挽した。漱石にも声を掛けたが、これは実現しなかった。この湖南や露伴の教授推挽の際、権威主義の傲慢な文部省官僚たちと揉めた。湖南や露伴には学歴がないと言うのである。しかし湖南は野にあって当代随一の支那学者であり、露伴は優れた文学者である。亨吉の目に狂いはなかった。彼はそもそも、高学歴で傲慢で浅知恵の官僚どもとの折衝には、実に不向きな人間なのである。亨吉は宮仕えにうんざりした。一人静かに研究に打ち込みたかった。
明治四十年、亨吉は「記憶すべき関流の数学者」として本多利明を発掘した。無論、江戸時代の人である。本多利明は数学者、物理学者であるばかりでなく、日本で最初の本格的な経済学者でもあった。
さらに翌年、亨吉はついに某文学博士談として「大思想家あり」と題し、確龍堂良中の思想のエッセンスを、実に慎重に思慮深く言葉を選び、新聞に発表した。
狩野亨吉(こうきち)の手元に稿本「自然真営道」を持ち込んだのは古書店の田中清三だが、彼の手に入るまでは次の経緯であったという。
北千住に橋本律蔵という人がいた。大きな屋敷に住み、膨大な書籍を有する篤学者だったらしい。「北千住の仙人」と呼ばれていたそうである。あまり近所つき合いもなかったようだが、近くの内田魚屋の親父には、「自然真営道という非常に貴重な書籍を秘蔵している」という話をしていた。家産が傾いていたこともあり、律蔵の死後、その蔵書や書画骨董の全てが売りに出された。内田魚屋からその話を聞き及んでいた内田天正堂という者が駆けつけたとき、蔵書は既に浅倉屋書店が買い取った後であった。内田天正堂は浅倉屋に行って「自然真営道」を入手した。彼が読んでみたところ全く理解できず、これを本郷の一高近くにある田中清三書店に売った。田中清三がそれを亨吉に持ち込んだのである。
「北千住の仙人」橋本律蔵は、どうしてこの「自然真営道」を秘蔵していたのだろうか。彼の先祖は安藤昌益の門人だったのだろうか。

亨吉は「自然真営道」を読みすすみ、この著者が「倭国羽州秋田城都ノ住ナリ」とあるのを見つけた。しかし確龍堂良中の本名や、彼の身分がわからない。亨吉は一冊一冊、渋紙表紙に貼られている反故紙を剥がし、そこに何が書いてあるかを調べてみた。すると、彼と弟子との手紙のやりとりの断片が出てきたのである。借金の無心やら、その断り、年始の挨拶などである。そして確龍堂良中の本名が安藤昌益であること、秋田に生まれ、医学を学び、八戸で町医者をしていたことが分かったのである。門人は二十数名を数え、八戸、松前、須賀河、江戸、京都、大坂にいることも分かった。
亨吉は秋田大館の出身である。彼は秋田の知人友人に安藤昌益、確龍堂良中の照会の手紙を書いた。「これなら簡単に調べはつくだろう」と亨吉は思ったに違いない。秋田の友人たちは八方手を尽くして調査したが、安藤昌益の記録も手がかりも、全く見つからなかったのだ。
それにしても昌益の「自然真営道」が、同じ秋田出身の亨吉の手に渡ったのは全くの奇蹟と言っていい。しかも亨吉は当代随一の博捜の碩学なのである。かなり後に判明するのだが、亨吉の生まれた大館町(現大館市)と、安藤昌益の生没地である二井田村(現大館市)は一里半ほどしか離れていなかった。ちなみに、小林多喜二が生まれた下川沿村川口(現大館市)は、昌益が眠る温泉寺境内から遠望できるそうである。この辺りはいわゆる比内地方である。「内外教育評論・第三号」に某文学博士談として発表されたのが、昌益が世に現れた最初である。
「この大思想家は大方大抵の人が知らない。それは何故かと言えば、この人の書を誰も読んだことがないからだろうからだ。その人は今から百五十年程以前の人ということは分明したが、無論その書は出版されず、わずかにこの写本が残っているのみだ。而してそれに書いてあることが、ちょっと見ると、すこしも分からぬ。…中には狂的のような論を書いているし、文字の使用も独特だ…。しかし段々読むと、中々捨てがたい面白いところがある。…著者の人物性行というのかそれがよく分からん、それを知りたいのだ。…生国は秋田県だ。その後八戸辺に行ってたらしいが、しかし随分各所を歩いたらしい。長崎などに行って和蘭人を見たこともある。学問は深いとは言えぬが、一通り種々の本を読んでいるようだ。本人は医者であったと見えて医学上の知識は当時の人として随分あったようだ。…性質は極穏和の方で…。余程狂的のようだが、門人もあり、その門人中の神山など云う人間は、八戸で相当の家らしかった等を見れば、狂人でもなかったらしい。何分、これだけの書をつくった人だが、その委しい事が分明せぬ。…何しろ不思議な人間だ。…而して彼が何故この書を公にしなかったかは、その説によれば、人間は一切平等主義のもので、種々の階級とか、君臣などというものは不自然なるものとせるから、当時の徳川の世にこんなことを言えば、身首所を異にするからだ。」

話が逸れる。数年前に「変人」というエッセイを書いた。私が高校二年に進級した時、クラスに見馴れぬ顔がいた。千葉君といい、年齢が一つ上だった。彼が一年休学したため同じ学年となったのである。噂では緑が丘に入院していたという。仙台で緑が丘と言えば精神病院を意味する。横浜ならワシン坂、東京なら松沢病院である。おそらく強度のノイローゼで通院していたのだろう。
彼は自ら教室の中央最前列の席を望んだ。ソクラテスのような顔で普段は呆けていた。しかし授業が始まると豹変した。数学、物理、化学、歴史、倫理社会、漢文、英語…どの学科でもよく挙手し教師に質問を浴びせた。それは教師も即答できぬ高度なもので、当然他の生徒たちには理解不能なものであった。ほとんどの教師たちが「調べてくるから明日まで待ってくれ」「一週間の時間をくれ」と猶予を乞うた。教師たちは戦々恐々だったに違いない。
倫理社会に思想哲学が含まれていた。教師はプラトンもルソーもカントもヘーゲルもホッブスもマルサスも読んでいないことは明らかだった。教師は多忙なのだ。彼は体育と音楽以外の学科は全て満点だった。休み時間になると、人が変わったようにボーっとしていた。
おそらく我々は天才を間近に見ていたのだ。私と彼は通学路が同じで、自然一緒に帰ることが多くなった。彼はブツブツと私に問う。ソクラテスの××の命題をどう考えるか?…当然私は答えられない。そんなこと考えたこともないのだ。やがて私は文庫本を買ってプラトンを読む。少しも理解できないのだが、一週間の後、覚えたての哲学用語を使用して精一杯背伸びをし「この間の命題についてだけど…」と彼に話しかける。しかし既に彼の関心はそこにはない。その関心は別の哲学命題に進んでいたからだ。
そんなある時、彼が私に浴びせた質問に、安藤昌益の「互性活真」「二別一真」があったのだ。私はその時、昌益の本を読む余裕も、理解する頭脳もなかった。私に答えられるはずもない。どうせ私に質問するなら、大鵬や柏戸について訊いてほしいものであった。互性活真は知らないが立ち会いの「後の先」なら知っている、二別一真は知らないが「二丁投げ」なら知っているぞ。…私が昌益の「統道真伝」を手にしたのは、それから三年も後のことであった。

明治四十一年の秋、狩野亨吉が前年から提出していた京都帝大学長の退官が認可された。表向きの理由は病気(神経衰弱、胃病)だったが、本当の理由は、内藤湖南の教授任用に関して文部官僚と衝突したことで、宮仕えに嫌気がさし、そして昌益の研究に没頭したかったからである。
内藤湖南は亨吉と同じ秋田見出身である。毛馬内村(現鹿角市、「浜辺の歌」の作曲家・成田為三が小学校訓導になった地である)に生まれた。秋田師範学校卒業だったため、文部省は「たとえお釈迦様でも孔子であっても、大学を卒業していない者が教授になることは認めない」と言った。亨吉はその時点で辞表を書いたのだ。湖南は一年後に京都帝大の教授となり、後に京大の東洋史学を確立した。また湖南は、大坂・懐徳堂の富永仲基を発掘している。彼の「日本文化史研究」は文庫本で誰でも読める。題名は忘れたが、たしか東洋文庫にも彼の著作があったはずだ。
亨吉は退官後、小石川雑司ヶ谷の平屋に住んだ。その家は膨大な和漢洋の書籍の重みで傾きかけていたという。彼は蒐集していた書籍を売って生活していた。たまさか依頼の講演をこなし、依頼の原稿を書いた。しかし自分を紹介するに「私は古本屋です」と言っていた。
その頃から東北帝国大学図書館に、数次にわたって亨吉の蔵書を納入しはじめた。これは十万冊を超える膨大かつ貴重な蔵書で、有名な東北大学の「狩野文庫」である。大正二年に古物商の鑑札も受け、「明鑑社」という表札を出し、書籍・書画の鑑定を業とした。独自の科学的鑑定法を考案し、それらの重量を量り、顕微鏡で落款を覗き、大きなクシャミを連発していたのである。無論、昌益の発掘と研究に熱を入れていたのだが、一方、これもまた貴重かつ膨大な春画の蒐集にも熱を入れていた。昌益の追跡、研究や春画集めには、古本屋と鑑定屋は都合がよかったのだろう。
新聞記者出身で在野の昌益研究者である川原衛門は、…禿頭に横っちょに被った鳥打帽、近眼鏡、チョビ髭、着流しに古下駄、背に大きな風呂敷包み、脇目もふらず歩いて行く…と、どこかユーモラスな亨吉の姿を見事に活写している。
亨吉の様子を伝え聞いた先輩の濱尾新や東京帝国大学総長の山川健次郎等は、それを惜しんだ。大正二年、濱尾や山川から皇太子の教育掛に推薦したいと伝えてきた。皇太子とは昭和天皇のことである。しかし亨吉は「自分は危険思想の持ち主なので、王者の師傅(しふ)に適さない」と言ってこれを固辞した。また山川らに「近頃、善と悪との区別が判らなくなった」と語ったという。日本思想史の鈴木正は「日本史上、王者の師傅を振った人のあるのを聞かない」と書いている。
その後、亨吉の学問の高さと高潔な教育思想を惜しむ沢柳政太郎や山川らは、彼を東北帝国大学総長に推した。物理・数学、哲学を学び、数理哲学を専門とし、教育者としても優れた亨吉ほどの男を、野に埋もれさすにはあまりにも惜しかったのだろう。しかし亨吉はこれも固辞した。もう文部官僚のツラなど二度と見たくなかったし、宮仕えを嫌ったのだ。…それよりも昌益と春画なのである。
後の話である。宮内省が昭和六年正月の御講書始めに亨吉を推薦したが、彼はそれも固辞した(受けて春画でも見せてやればよかったのだ)。亨吉は自分に代わり内藤湖南を推薦した。その年、湖南は「通典(つてん)」を進講している。亨吉の中に、昌益という地に潜む龍が頭をもたげていたのだ。
ちなみに濱尾新は東京帝国大学総長を務め、東京美術大学の創立者でもあった。元老員議官、貴族院議員、枢密院議員、文部大臣と東宮大夫・御学問所副総裁を歴任した。
山川健次郎は会津白虎隊の生き残りである。物理学者となり、東京帝国大学総長や京都帝国大学総長を務めた。妹は岩倉使節団と共に渡米し、津田梅子らと留学した山川捨松である。
沢柳政太郎は幸田露伴や上田万年等と共に、亨吉の若い頃からの親友だった。文部官僚を経て、東北帝国大学や京都帝国大学の総長を務めた。沢柳は亨吉を高く評価し、彼を支え続けた。

大正十二年、昌益の「自然真営道」を東京帝国大学で買い取ろうと、吉野作造が申し入れてきた。最初亨吉は渋ったが、吉野は熱心だった。これほどの貴重な文献類を個人が所蔵するより、誰もが閲覧可能な図書館に移した方がよいと、亨吉は考えを変えた。彼は「自然真営道」百巻九十三冊と「藤岡屋日記」等を東京帝国大学図書館に売った。「藤岡屋日記」とは藤岡由蔵という外神田の古書肆が、文政から慶応までの四十六年間書き続けた、江戸の異聞、珍聞、風俗、流行の膨大な記録である。
それから間もなく関東大震災が起こり、東京帝大図書館の貴重な八十万冊とともに「自然真営道」も焼失した。亨吉は「眠れる獅子の生きながらにして火葬にされたようなもの」と慨嘆したという。この「自然真営道」全冊に目を通していたのは、独り狩野亨吉だけなのである。
このとき消失した八十万冊には、貴重な洋書二十数万冊、絵巻物百巻も含まれていたが、「…凡本俗書の間に埋もれたまま灰になった二大著述があった。一は安藤昌益の自然真営道、一は藤岡屋日記であった。二つとも狩野亨吉氏の所蔵であった。」と内田魯庵は書いている。
後に、亨吉の弟子にあたる渡辺大濤が「自然真営道」の二冊を、また歴史学者で帝大史料編纂係長の三上参次博士が十二冊を借り出していて、それらは焼失を免れて、それぞれの自宅にあることが判明した。
大正十三年、亨吉は下谷の古書肆吉田書店で、「自然真営道」の写本三冊を見つけた。さらに翌年、上野黒門町の文行堂書店で、確龍堂良中と署名の入った写本「統道真伝」五冊を発見した。「統道真伝」は「自然真営道」のダイジェスト版のようであった。また後年、「自然真営道」の刊本三冊が発見された。
相変わらず、安藤昌益、確龍堂良中の秋田や八戸の手がかりはなかった。生年も没年も判らないのだ。名前の判った昌益の弟子たちの追跡も行われた。昌益の高弟と目される八戸の神山仙確は、藩の御側医であることが判明した。一方「自然真営道」は亨吉が作った偽書ではないかという説を囁く者もいた。亨吉や渡辺大濤らは、全国に散らばる昌益の門人たちを発掘するため、手分けをし旅をするようになった。

大正十四年、「中央史壇」に狩野亨吉の話を大森金五郎が書き取った形で「狩野博士とその珍書」が発表された。
「著者の曰く、…世の教というものは甚だ愚なるものである。儒教の如きも一の教を立てて勧善懲悪を趣旨として居る。その教について考えて見るに、善を助長し悪を無くすれば、いわゆる黄金世界になるかの如く思って居る様だが、これは大いなる誤であって、自然の道を知らざる者の言である。善と悪は相対であって、悪がなければ善もない、善があれば必ず悪がある。しかるに善を助長して悪を無からしむるとは矛盾の事で無意味である。釈迦の説くところ、孔子の説くところも概ねこの類で無意味に終わるのである」
「…君も臣も諸官も要するに皆これを一つの職業であると認め、その間に貴賤の差別などは無きものとしてある。…みな互性活真の道理から出発し、極めて平和主義であって、敵を認めず、世を怨み時代を憤るということもなく、争いも宜しからず、殺戮もよからず、我が道には争もなく兵も語らずなどとあって、これが此の人の一特色というべきである」…
この頃、江渡狄嶺(えとてきれい)が、安藤昌益を「日本の四農」の一人として称揚した。四農とは農民思想家としての昌益、農夫としての二宮尊徳、学者としての佐藤信淵、農民側の改革者としての田中正造である。
江渡狄嶺は明治十三年に青森県の三戸郡五戸に生まれた。尋常中学八戸分校に学んでいる。少年時代より陽明学や老荘の書物を読み、後に内村鑑三、トルストイや聖書を耽読して、明治四十一年に受洗している。彼はまた無政府主義者クロポトキンに心酔した。彼がわずかな安藤昌益の情報に触れ、この故郷と深い関わりがありそうな宝暦の思想家に、強い関心と感銘を受けたことは間違いない。江渡は自分の農場を開墾した。昌益の言うように、「百姓の生活が一番正しいものである」からだ。彼は「百姓」を「百性」と記し、明治末年に「百性愛道場」を開き、「土と心を耕しつゝ」を著している。柳田国男は江渡狄嶺を「土に親しむ穏健なアナキスト」と評した。
大長編小説「大菩薩峠」で知られる中里介山は、この江渡狄嶺やトルストイの著作や思想の影響を受けた。特に江渡狄嶺の思想を通じて安藤昌益に心酔した。彼は奥多摩出身で、羽村に農場を開き、本名の弥之助から「百姓弥之助」と称した。
昭和十七年、文壇は文芸家協会を編入して日本文学報国会を設立し、全ての文人文学者の会員加入を求めた。戦後反体制を標榜した詩人の金子光晴も、中野重治や高見順も、会員として名を連ねた。さらに宮本百合子、蔵原惟人らの名もある。この日本文学報国会を鼻先でせせら笑い、加入を拒否した唯一の作家が、中里介山である。介山の中に龍がいたのだ。彼は「百姓弥之助の話」を書き続け、その第八冊は「安藤昌益の巻」の予定だったそうである。これは介山の死により永遠未完となってしまった。
ちなみに高村光太郎も安藤昌益に心酔した一人だが、彼は日本文学報国会に積極的に関わっている。

(今から六、七年前に書いたエッセイ「地に潜む龍」を抜粋した冒頭部分である。)