青年は片山潜の影響を受け、アナルコ・サンディカリズムに惹かれていた。ロシア革命が起こり、彼は北明と名乗った。彼の故郷の富山から米騒動が全国に拡大した。
梅原北明の反逆精神に多大な影響を与えた事件と人物があるのではないか。
事件は大逆事件である。幸徳秋水等が刑死させられたこの事件で、近代天皇制の凶悪な毒が明らかになった。事件が日本の知識人に与えた衝撃は凄まじく、早熟で多感な少年だった北明にも、大きな影響を与えたことだろう。彼は近代天皇制を終生の敵と見定めたのではなかったか。
人物は、富山出身のジャーナリスト横山源之助である。彼は「日本之下層社会」を著し貧窮の中に斃死したが、この著作は日本のルポルタージュの先駆けとなり、今日に至るまでノンフィクション、ドキュメンタリー等に影響を与え続けている。北明が抱き続けた下層社会への強い関心は、この郷土の先輩ジャーナリストに触発されたものではなかったか。
北明は学校をやめ、関西に移って特殊部落に住みつき、セッツラーとして部落解放と人権確立と境遇改善の実践運動に関わりはじめた。
大正十年、北明は全国水平社大会の開催を計画した。彼は西でも東でも、とにかく本願寺の一角を借りて開催しようと考えた。しかも本願寺教団を弾劾しようというのである。浄土真宗は、現世では報われなくても南無阿弥陀仏と唱えれば、西方浄土の極楽に生まれることができると教えていた。両本願寺とも被差別部落の人々の多くを門徒としていた。彼等はあの世では救われたいと、教団が言うがまま必死で募財に応じていた。本願寺にとって部落民たちは金になるのだ。これは搾取ではないか。両本願寺とも世襲による法主襲名は天皇制と同じである。北明にとって、法主の大谷光瑞の個人的な能力や人格や個性は、どうでもよいのだ。天皇のような世襲の門主なんて認めないし、大正天皇の貞明皇后の実姉と結婚し、皇室と縁戚関係を築くような俗物だ。…とにかく騒擾なのだ。
…被差別部落の多くの方たちが門徒である、だから本願寺教団は全国水平社大会のために会場を貸すべきであると北明は交渉した。当然のごとく本願寺教団から、にべもなく断られた。…後年、北明は雑誌「グロテスク」の座談会で、本願寺門主の性生活を暴露した。彼は執念深いのだ。北明の性質は飽きっぽいが、また執拗でもある。それが、官権を呆れさせるほどの闘争を持続させたのだ。
北明は仕方なく大阪市を騙して、管理する中之島公園を借りた。こうして全国水平社大会が開催され、部落解放・人権宣言・本願寺教団と社会の抑圧システム弾劾に気勢を挙げた。これは画期的な出来事であった。
彼には真面目な社会的正義感・改革意識があったのだ。しかし彼は稚気が多く、茶目っ気過剰だ、いたずら好き、嘘言癖があり、飽きっぽい。そして騒擾を好む。その信念や真摯さは誤解される。本人もさしてこだわらない。
この水平社大会終了直後、北明は大阪から姿をくらました。官権が「責任者出てこンかい!」と騒いだからである。素早さは北明の特質である。
以後、彼は社会の下層民への共感を行動で示すことなく、労働運動からも社会運動からも身を引くのである。…飽きたのだろう。
北明はエロ・グロ・ナンセンスの帝王、地下出版の帝王、発禁王、罰金王、猥褻研究王と呼ばれた。その用法は…「知る人ぞ知る地下出版の帝王、梅原北明」「知る人ぞ知るエロ・グロ・ナンセンスの帝王、梅原北明」…。発禁・罰金・逮捕拘束の回数は三十一回を数え、宮武外骨の二十八回を上回る。
北明自身「私は畏れ多くも御上から、前後三十一回も『禁止勲章』を頂いた国家的功労者」と言って、周囲の者を笑わせていた。
北明が始めた雑誌「文芸市場」の営業成績は振るわなかった。内容が進み過ぎていたのである。また彼は放漫な金銭感覚の持ち主で、経営に不向きだった。彼の元に集まったプロ文学の輩は、朝遅くまで居汚く寝て、昼間から酒を飲み、観念的な議論にあけくれ、鼻持ちならぬ特権意識を持っていた。北明は雑誌の同人形式を解散し、彼の個人編集に改めた。
大正十五年、北明は文芸市場社内に文芸資料研究会をつくり、機関誌「変態資料」を創刊し、単行本「変態十二史」シリーズを刊行した。北明は「忽然としてエロティシズムの大旗を翻した」。
シリーズは「変態刑罰史」「変態人情史」「変態仇討史」等で、これが当たった。この時、取次から小売店へという流通経路をとらぬ「直接購読」の方法で読者に手渡した。発禁対策である。直接購読の場合、警察は押さえにくい。北明はゲリラ編集者、ゲリラ出版者なのである。この「変態シリーズ」で経営危機を脱し、さらに「性語大辞典=性欲学語彙」、単行本「ふあんに・ひる」(ファニー・ヒル)を出した。「エロ出版の北明」の誕生である。しかし「ふぁんに・ひる」は発禁をくらい、出版法違反で百円の罰金を払わされた。また十二史中の「変態崇拝史」も発禁をくらった。…北明を苦しめたものが三つある。弾圧と、資金繰りと、宿阿となった淋病である。
北明は、すさまじい弾圧を受けながら、エロ・グロ小説や画集、雑誌、資料を出版しては発禁・罰金・逮捕拘留を繰り返した。それが地下出版の帝王、エロ・グロ・ナンセンスの帝王、ポルノ出版の帝王と呼ばれ、後年「時代の徒花」と言われてしまうのだ。これらの二つ名が、北明をいささか矮小化された伝説の人物に留めてしまうのである。
しかし北明の本質は、たった一人で権力と知恵比べをし続けた「反骨」にある。彼ほど戦前の天皇制検閲と闘った者はいない。松浦総三が「天皇制検閲」の支柱は二つあったとしている。一つは「安寧」で、天皇制批判や革命を叫ぶ者を弾圧すること、もう一つは「風俗」紊乱者を弾圧することである。北明は安寧と風俗の二つの分野で闘った、全く希有な例なのであった。
彼は毎朝八時に家を出て、夕方四時まで日曜以外は一日も欠かさず「当時の文部大臣に懇請して、上野の帝国図書館に秘蔵してある閲覧禁止の請はば門外不出の諸新聞の閲読を特に乞ひ、同館の特別会議室を三年近くも借り受け、風雨を論ぜず毎日十人の筆生を派遣して記事の筆写に没頭し…」これを元に、次々と日本の近現代史の裏面史・事件史・風俗史等の出版に取りかかる。…「従来、『歴史』と称する大半の著述は所謂御用学者によって政府の御都合主義に迎合し、或は支配階級の利益を庇護するために粉飾されたもので」「虚飾なき赤裸々な国民的歴史…あるが儘の社界相を反映せしめんと…」
しかしこうした厖大な諸新聞から拾い集めた事件史・裏面史・世相史・風俗史の成果の一つ「明治性的珍聞史」も発禁となった。北明にとって昭和時代の幕開けは、弾圧が強化された時代の幕開けだったのである。北明が企画したイベント「八百屋お七追善法要」は、昭和の御代への復讐(嫌がらせ)のひとつだったのだ。
北明は「変態史料」誌の昭和二年三月号で「明治新聞雑誌資料筆禍文献」を特集し、その巻頭言に書いた。「ここ一カ月に陸続と禁止を食い、警視庁特別高等検閲課にお百度を踏まされました。…責任者たる拙者が罰金か体刑を受ければ其れまでの問題なのであります。…たとえ内務省がどう云おうと警視庁が圧迫しようと、今度からは当方にも陣容を整えて合法的に喧嘩を始める決心で、茲暫くの間、おひやらかしてやるつもりです。…さて諸兄よ。いくら吾々が彼らと喧嘩を始めたって、諸兄には迷惑をかけません。対岸の火事見物の気持ちでいて下さい。その筋から雑誌を略奪に来ても相手にしないで下さい。第三者の手に渡った以上、押収していく権利はないんです。」…これは取締り当局に対する彼の闘争宣言である。
昭和二年八月号の「文芸市場」に、雑誌が完成してから発禁になって罰金を払うまでを「発売禁止道中双六」が掲載された。「…雑誌が発禁を喰うにはどの位の手数と時間と経費がかかるか御存知ですか? 電報料丈けだって大抵なものではありません。とに角雑誌ができると先ず 内務省二冊、警視庁一冊、区地方裁判所二冊、東京逓信局二冊、差出局二冊、所轄高等出版係一冊、都合十冊を納本いたします。…とっくり下図によって如何にお役所仕事が神秘で面倒臭いか御らん下さい。伝手(ついで)だから本省の検閲係の人を御紹介します。普通出版物と性に関する者は千葉氏、小説と社会主義に関するものは磯部氏、同人雑誌は内山氏、外国新聞雑誌は久保氏…」
図には「発売禁止道中双六『書籍道中初旅の人に捧ぐ』」とあり、「本社発送係」が振り出しで、「罰金受付係」が上がりとなっていた。読者はこれで遊べるのである。もちろん発禁で、これにて北明「文芸市場」を廃刊した。
ほどなく「文芸市場を上海に安定せり」という移転通知が読者会員に送られてきた。「満二年間も小役人の跋扈する日本で雑誌を出して居るといい加減飽きが来る。そこで国際的に第一歩を踏むべく世界の浅草、言論の自由国、上海へと乗り出してきました…」
言論が自由で伏せ字や削除の必要もない、治外法権下の上海から、日本の取締り当局に対して北明の嘲弄が始まったのだ。北明は上海で「カーマシャストラ」誌を出した。治外法権下の上海での刊行なので、伏せ字も削除もない。北明は「デカメロン」の時と同様に「国際問題」をちらつかせて当局を脅している。
「吾々は単なる取次で発行人は外国人の手に譲られて了ってありますから、これは日本政府の自由には行きません。…発行所が外国の場合、その出版物に対し、日本政府は発禁を食わす権利はなく、その代わりに日本内地への輸入禁止命令を出します。故に輸入禁止命令が日本政府より発表された後の該出版物に対しては、郵便局で発見次第、その発行地の外国へ逆送するだけで、郵便局や警察で猫ババを決める訳には行きません。若し猫ババを決めた日には告発されたが最後、国際問題になります。随って該出版物の注文主は、これに対する何等の法律的制裁も受けずにすむのは当然なことです。」
「カーマシャストラ」の発行印刷人は「中華民国上海仏租界飛霞路・張門慶」となっている。この名は「性史」で有名な編著者・張競生博士と、中国の古典で奇書として有名な「金併梅」の主人公・西門慶を組み合わせて、北明が創った架空の人物である。彼らしい遊び心と、検閲官らへの嘲弄である。むろん「カーマシャストラ」は輸入禁止にされた。
この上海で北明は山本五十六と出会った。北明が大世界(ダスカ)でルーレットをやっていた時、演習航海で上海に立ち寄った山本五十六大佐が、北明の隣にきて遊んでいたらしい。五十六は博打好きであった。彼がロンドン軍縮会議や第二次ロンドン会議予備交渉に日本側の代表団として出席したおり、ホテルの部屋に戻ると副官らとポーカー、ブリッジと博打三昧だったと記録されている。このとき彼は少将になっていた。
さて五十六はすっかり北明の人柄に魅了された。北明は相手が泣く子も黙る帝国海軍の艦長と知っても全くその態度を変えず、ごく普通の心の置けぬ博打友だち、馬鹿話やエロ話に興じる友だちとして付き合ったのである。特に北明の話は面白く、聞き手へのサービスとしての虚言癖もあった。
その後も五十六は暇ができると北明を探し訪ね(官憲に追われる北明は、住まいの移動が激しかった)、花札やチンチロリンに興じている。五十六は北明の購読会員にもなり、その出版物を愛読した。
五十六は飄々としてユーモアにあふれ、教養豊かで博打と好色本が大好きなのだ。実は五十六と夫人の間は冷え切っていたらしい。五十六が長期航海で留守の折り、部屋を掃除していた夫人は偶然大量の好色本を見つけてしまった。潔癖な夫人はそんな本を隠し読んでいた五十六が許せなかったのだろう。ある映画作品の中で、夫人は取り澄ました大変冷たい感じに描かれ、五十六がその態度に軽い諦めのような溜息を吐くシーンがあった。
後年、日本がアメリカと戦端を開いた時、北明は山本五十六が連合艦隊の司令長官になっていることを知って喜んだ。「あいつは俺よりも博才がある。もしかすると、彼ならこの勝ち目のない博打に勝てるかも知れない…」
実はそれより以前、生活苦に喘ぐ北明のために、五十六は海軍がらみの仕事を世話して彼を助けるのである。
北明が上海から帰国するのを待っていたのは、ファンだけではなかった。待ちかまえていた警察は、直ちに出版法違反で逮捕し、数十回に及ぶ家宅捜査を行い、市ヶ谷刑務所に長期間放り込んだ。北明はこれを官費の別荘住まいと嘯き、この別荘で鋭気を養ったのである。
釈放されたのは昭和三年夏。早速、雑誌・単行本の出版の準備に入り、「亡者が娑婆に帰宅を許されたる話」と題した新刊案内状を読者会員にまいた。
「ヤァ諸君!まずもって暑中お見舞い申し上げまする…」とかえって元気になっていた。しかし、出版法は累犯加重がない代わり、事件件数ごとに罰金が累計されたので、北明が課せられた罰金は二十五種合計「壱万壱百円、もしくは「体刑五年以下」にのぼった。「これも皆、昭和の聖代なればこそで誠に有り難い次第であります。治安維持法案のように死刑や無期以下でなかったのが何よりでございます。…この際娑婆へ出て来た私自身を、今一度寄ってたかって真の面倒を見てくれ、今一度、研究心を鞭撻してくれる友人の出現を欲してやみません。…禁止勲章の辞退が許されるわけのものでもなく、己の欲する所、猪の如くばく進するまでです。」
北明の心意気、闘争心、反逆心ますます燃えさかった。罰金以外にも北明は金が必要だった。出版化したい厖大なアイデアと、帝国図書館の厖大な古新聞渉猟と筆写のために、まだまだ多くの筆耕生を雇わなければならなかった。彼が漁った古新聞は、性的珍聞だけではなく、政治・経済・社会全般に及ぶ「民衆史」であった。それはジャーナリスト北明の本質を示す仕事をなさしめ、その歴史観はアカデミックな歴史家の眼が及ばぬ「近現代史」の裏面を浮き彫りにした。
「近世社会大驚異史」「近代世相全史」(全四冊)、「明治大正奇談珍聞集大成」(上中下)、「江戸時代・非人乞食考」(全三冊)、「日本刑罰史-続江戸町奉行支配考」「反逆異聞・竹橋騒動史」「近世ハイカラ変遷史」「近世落書報道史」…特に出色は「近世暴動反逆変乱史」である。この題名を眺めただけでも、北明の志は明らかだ。この中の「竹橋騒動史-日本最初の軍隊の暴動」は、明治・大正・昭和の日本政府のタブーであった。天皇を護る近衛兵たちの反乱だったのだ。他の目次の事件史も暴動・反逆・変乱・内乱・暴虐・事件・騒擾…と並ぶ。その志は明らかだ。
北明は政府が強調する明治の「聖代」を、裏から下層から撃つのである。そして大逆事件が明らかにした近代天皇制の毒と禁忌へ、終生の敵へ愚弄と嘲笑をもって挑戦していくのだ。暴動・反乱・変乱・反逆への期待と煽動へ、そして人間の根底の性へ、さらに奥底の変態・猟奇の扇情へ…。ただ、北明の闘いぶりは陽気であった。彼の武器は柔らかだった。
そんな北明に密かに拍手喝采を送り、「今一度寄ってたかって真の面倒を見てくれ、今一度、研究心を鞭撻してくれる友人」は、日本全国にいた。いくつも事業を展開していた大金持ちも、東北の某県知事も彼を助けた。
当時「講談雑誌」の編集長・真野律太によれば「彼の魅力に捕らえられてしまうと、ぜひともこの男の言い分を聞いて、ピンチを救ってやらねばならないという、摩訶不思議なパセティックな感情に捕らえられてしまう。」
彼に魅了されたファンの中には、某宮様もおり、「北明番」の巡査の中にもいた。巡査は汗だくで発送を手伝っていたという。
北明が警視庁本庁の留置場に入れられた時、警視総監が直々に取り調べると言い出し、取調室から人払いをさせた。総監閣下はヤカンから湯飲みに冷や酒を注ぎ、嬉しそうにそれを北明にすすめ「ところで、次の企画はなんだネ」と尋ねた。彼は北明の「変態シリーズ」を全て持っており、北明の大ファンだったのだ。この警視総監は内務省の超大物高級官僚、桜田門の大狸と呼ばれた丸山鶴吉である。丸山は文化・芸術への深い造詣と出色の知性を持っていた。後、大政翼賛会事務総長に就任し、戦後公職を追放されたものの、解除後に「武蔵野美術学校」(武蔵野美術大学)の校長となった。
しかし天皇制検閲によって、さしもの北明も追いつめられていく。「グロテスク」復活号の後が続かず、執筆者もいなくなる。彼は自らペンを取り、いくつかのペンネームを使い分けて艶小説やグロ小説を書き、執念を燃やし続けた近代日本の裏面史を書き、出版するが、その生活は貧窮を極めた。
関西の良家の娘ばかりが通う某有名女子校の校長が、手を差し伸べた。彼は北明の大ファンであった。北明は学校の宿直室に住まわせてもらい、英語教師として働くことになった。エログロ出版でお尋ね者の北明に、上品な良家の娘たちの教師をやらせるとは、校長も大した度胸であった。教師としての北明は常に全員に九〇点をつけた。一部の生徒たちは大喜びしたが、とうとう父兄から苦情が来た。北明は一年で教師を辞め上京した。
彼に靖国神社の社史編纂の仕事を世話する者がいたのである。北明のファンでもあり、また彼の文献収集、編纂の技量を買ってのことである。北明は近所の下宿屋に一人住まいし、社務所に通った。
有楽町の日劇は何をやっても不入りで閑古鳥が鳴いていた。日劇は阪急電鉄をはじめ二百を超える事業を展開していた小林一三の阪急グループの経営である。日劇のあまりの不振に、御大・小林一三が自ら文芸部の企画会議に出席した。「おもろない、そんなもん誰が見に来るかい! 他に企画はないンか!」…おずおずと一人の社員がアイデアを述べた。それはこれまで出された企画の中で最も面白い案だった。…「梅原北明に企画を頼んだらいかがでしょう?」「北明? 梅原北明…それ、おもろいやないけ。よし北明を捜せ」…北明が靖国神社社史編纂に取り組んで一年が経っていた。
北明は日劇文芸部の企画を引き受けた。彼は先ず洋画の輸入を始めた。第一弾はチャップリンの「街の灯」である。これは大ヒットとなり、チャップリンのブームが始まった。北明は洋画の輸入業者になったのである。さらに北明は小林一三に現代の金にすれば十億円前後の金を用意させた。…北明がその金で呼んだのがアメリカの「マーカスショー」というレビューショーの一座だった。北明は日本初の「呼び屋」になったのだ。今の言葉で言えばプロモーターである。このレビューショーは話題を呼び、公演中は連日、来場者が日劇の周りを何重にも取り囲み、空前の大成功だった。
北明は非合法すれすれでラインダンスを演出した。警視庁からの呼び出しはなかったが、右翼どもが北明を狙った。「帝都のド真ん中で白人女がパッパカパッパカ脚を挙げる半裸踊りをするとは何事か! 不敬である!」と言うのである。
北明一家は、帝国ホテルを何室も借り切り、朝昼晩レストランで食事をとる等、優雅な暮らしをしていた。右翼どもは次々にドアを開けて北明を探したが、とうとう彼にたどり着けなかった。翌日、北明が日劇の支配人室にいたところを右翼どもが押し掛けた。右翼の壮士が怒鳴った。「帝都のド真ん中で白人女が脚をパッパカ…」と言い終わるや否や、先に手を出したのは北明で、右翼の壮士はタイプライターで額をカチ割られていた。その日は、血まみれになった仲間を両脇から抱えながら、彼らは引き上げていった。
北明は日劇再建の報酬として日劇地下の映画館の権利と大金を手にした。彼はそのお金で映画プロダクションをつくり、ロケ隊を編成して台湾に出かけた。じっとしていられない性質なのである。「本邦初、全篇海外オールロケ敢行!驚異の高砂族の生態完全記録!」…現地では連日飲めや歌えのドンちゃん騒ぎで、半年ばかりですっかり金を使い果たし、全く売り物にならないフィルム(一フィートも回していなかったという説もある)と、高砂族の竹細工だけが家族への土産だった。
ほどなく北明一家は、浅草六区の裏町の貧乏長屋で暮らしはじめた。親子はリンゴの木箱をちゃぶ台がわりにして食事をしていた。
やがて北明は再び浮上する。また興行の企画を頼まれ、ドイツからハーゲン・ベック・サーカスを呼び、それが当たったからである。再び北明の家族は一軒家に引っ越し、食事といえば高級レストランで取るようになった。
「…貧富のサイクルがあまりにも短く、いわばバクチ打ちの生活にも似て、上がったり、下がったりでエレベーターに乗り続けているような按配だった。」
ある朝、家に目つきの悪い品性のない男たちがやってきて、北明の書斎に上がり込み、夫人を色々問いつめ続けた。男たちは憲兵たちだった。彼らが踏み込むほんの少し前、北明は逃亡していたのである。
北明は憲兵に付け狙われていることを事前に察知していた。新聞社にいる友人が知らせてくれたのである。夫人には暫く地下に潜る、吾妻大陸という名前がどこかの雑誌に出ていたら、生きていると思ってくれと言い残してトンずらしたらしい。北明の家には憲兵が泊まり込みで張り込みを続けた。間もなく、たまりかねて主なき一家は再び引っ越した。
なぜ北明は憲兵に追われたのか。理由は北明が友人のために、某陸軍大将の名刺を勝手に作って使わせたためらしい。
北明の地下潜行の逃亡生活は二年に及んだ。その間、また北明に救いの手が差し伸べられた。一人はすでに大衆小説で人気作家の地位を不動のものにしていた吉川英治である。吉川英治は北明の購読会員であり、熱烈なファンでもあった。北明は「新青年」に吉川英治の名前で「特急アジア号」を連載して原稿料を稼いだ。ゴーストライターである。「富士」や「少年倶楽部」にも少年剣劇ものを書いた。また「少年倶楽部」に吾妻大陸のペンネームで「吼ゆる黒龍江」という冒険小説を連載した。それを確認した夫人は、やっと北明の健在を知ったのである。「少年倶楽部」の編集長・須藤憲造や、「新青年」の編集者たちが、こうした仕事で何かと北明を助けていた。
やがて北明の地下潜行も終わり、公然と表通りを歩き始めた。その頃、山本五十六が北明に海軍系の仕事を世話したのである。それは中立国経由やドイツのUボートで運ばれてくる、欧米やアメリカの科学技術や工業技術関係の図書を、翻訳して、海軍を中心とした国内用の海賊版を出版することであった。北明は江戸川橋に海外工業情報所を設立し、これに携わった。最初の海賊版は石油採掘に関する技術書だった。
戦後、この海外工業情報所は科学技術振興会の母体となった。つい数年前までは警察や憲兵を使って追い回していた男に、政府は優先的に紙を配給する等して保護するようになったのである。また彼は機械輸入商の顧問として招かれ、度々満州など中国大陸に渡っている。機械輸入に関してはあまり商売にはならなかったが、機械技術書等を輸入している。さらに駐日大使オットーに手持ちの春画浮世絵をプレゼントし、最新の工作機械の設計図を入手したり、相変わらずはしこい一面を覗かせている。
太平洋戦争が始まる頃、山本五十六はすでに海軍大将となり、真珠湾攻撃の際は司令長官となっていた。北明は五十六の博才に儚い期待をしてみたが、やがて日本は敗走を続け、五十六は撃墜死した。内地への空襲も繁くなり、北明一家は小田原に疎開した。
北明は小田原から東京の海外工業情報所に通い、海賊版づくりに励んでいた。また海軍嘱託の肩書きを生かし、自宅に東京帝大農芸化学研究所分室の看板を掲げ、戦時燃料の研究を表向きに、軍に頼み込んで米の特配とアルコールをドラム缶でもらいうけ、蒸留器を据えて、米や芋からアルコールを抽出して香料を加え、自家製のウィスキーを作った。密造である。訪ねてくる友人や近所の人々にも気前よく振る舞い、酒盛りを楽しんでいたという。…
(だいぶ以前に書いた「北明漫画~オマージュとしての北明伝~」から、その一部を抜粋加筆し、時間が前後するが前回の小伝に続きその(二)とした。)