怪物と呼ばれた馬

以前、ある出版社のT社長と会食を共にしながら、競馬談義となった。Tさんは私と同い年か一つ上だったと思う。彼から「今までに目撃した馬の中で、最強馬は何か」という話を向けられた。すでにディープインパクトは前年暮れの有馬記念を勝って引退し、種牡馬になっていたが、オルフェーヴルはまだ生まれてもいない。
私は「ナリタブライアン」と応えた。Tさんは「ディープより強い?」と訊き返した。「ディープを最強馬としてもいいけれど、勝ったときの凄味、強烈な印象度で言えばブライアンです。ディープにも凄味を感じますが…」と私は応えた。「Tさんは?」と向けると「タケシバオーだね」と即答された。「え? タケシバオーって、Tさんはその頃まだ高校生でしょ。最後の年は大学生か…」「競馬場に行って馬券も買っていましたよ」
六十歳代、七十歳代のオールドファンの方々に同じ質問を向けると「タケシバオー」と応える方は多い。ディープインパクトやオルフェーヴル等も目撃している方が、そう応えるのである。おそらくタケシバオーは、凄味のある強烈な印象を与えたのであろう。
残念なことに私はタケシバオーのレースを見ていない。後年になって見た映像は古いモノクロームか色の悪いアーカイブ映像ばかりである。…その映像の中で、確かにタケシバオーは強かった。さらに成績記録を眺めながら、これは強い馬だと思っていた。
何しろ距離の長短は関係なく、芝もダートも、右回りも左回りも、良馬場も不良馬場も関係ない、万能の馬だったのである。不良馬場や重馬場で驚異的なレコードを叩き出し、3200の天皇賞を豪快に勝ち、1200の英国フェア記念(スプリンターズS)をレコードで勝つような馬だったのである。おそらくフェデリコ・テシオなら、理想の馬だと言っただろう。

かつて大井競馬の競走馬不足対策として、東京都馬主会がオーストラリアから競走馬を一括輸入し、抽選で馬主たちに割り当てた。その中の牝馬ナイスデイは見るべきものもない二流血統で、輸送費より安い馬であった。
抽選前に競馬専門紙「競友」と競優牧場を経営する小畑正雄、高橋建設の高橋、勝村建設の勝村、ホースニュースの角田、藤波らの馬主仲間は「あの馬だけは当たっちゃ困る」と言い合っていたのに、藤波クニジロウ氏がその馬を抽いてしまった。
ナイスデイはクニジロウ氏が抽いたのでクニビキと名付けられ、五人の共有馬として大井で走った。クニビキは5戦未勝利で繁殖にあがり、新冠の競優牧場に繋養された。競優牧場の場長は小畑の兄嫁の甥・榊憲治である。
クニビキには、血統一流、成績二流の種牡馬ヤシママンナが、ご近所の牧場で格安の種付料という理由で選ばれて、一頭の牝馬が生まれた。これも五人で共有した。高橋のタ、勝村のカ、角田のツ、藤波のナミをつなげてタカツナミと名付けられた。タカツナミは2戦未勝利で牧場に帰って来た。
タカツナミの二頭の仔は1勝馬で終わっている。次に種付料の安いチャイナロックが配合され、昭和40年(1965年)4月に三番仔となる牡駒が生まれた。この仔はハヤテロックと名付けられた。その後に生まれた二頭は未勝利に終わっている。
チャイナロックは、イギリスから良血種牡馬を輸入するとき「おまけにこれも付けてやるよ、持ってってよ」と格安で輸入された種牡馬だった。当時まだ実績もなかった。やがて、チャイナロックは屑馬を出さず、みなそこそこに走ると評価され、かつ続々と一流馬を輩出したのである。
ハヤテロックは小柄で痩せっぽちだった。牧場に来た三井末太郎調教師は「これでも馬ですか」と言った。当歳時に小柄で痩せて見栄えがしないのは、フェデリコ・テシオが育てた名馬たちと同じである。
ハヤテロックはタカツナミの共有馬主たちも引き取ることなく、売りに出したが売れ残った。榊場長は小畑に相談し、彼がそれまでの飼料代等の牧場経費として200万円で引き取ることにした。小畑は競走名をタケシバオーとして登録し、東京競馬場の三井厩舎に預託することにした。
3歳(現馬齢2歳)で三井厩舎に入ったとき、わずか400キロしかなかった。三井師は小畑と相談し、イギリスやアメリカから高品質の飼料と栄養剤を取り寄せてタケシバオーに与え、その上で調教することにした。
6月、新潟で畠山重則騎手を背にデビューを迎えた。馬体は460台に成長していた。2戦2着で函館に移動し、中野渡清一騎手に替わって初勝利をあげ、続く札幌で3着となった。この年、北海道3歳Sを勝ったキタノダイオーの評価が最も高かったが、故障のため戦線を離れた。
一方タケシバオーは秋の福島から圧勝を続け、馬体も480~490台へと成長していった。暮れの朝日杯3歳Sも7馬身差で圧勝し、この世代の一番馬とされた。翌年も快進撃は止まず、東京4歳S(D1700、馬場状態不良)も8馬身差のレコードで圧勝した。これで6連勝である。
しかし彼のライバルたちが打倒タケシバオーを誓っていた。大種牡馬ヒンドスタン産駒アサカオーと、新進種牡馬ネヴァービート産駒で良血馬マーチスである。しかもマーチスはハードトレーニングを標榜するカントリー牧場で生まれ、逞しく鍛えられていた。
タケシバオーは弥生賞でテンからカドマスと競り合い(中野渡は負けん気が強く、一歩も引かなかったのだ)、ゴール前でアサカオーに差されて2着に敗れた。その後、鞍上は森安弘明騎手に替わったが、タケシバオーからは何故か粘りが消え、負け癖がついたかのようである。スプリングS、皐月賞、NHK杯とマーチスに差されていずれも2着に敗れた。
ダービーでは、カントリー牧場が送り込んだタニノハローモアの絶妙のスローペースにはまり、これも2着に敗れ去った。
その秋タケシバオー陣営に、中央競馬会を介しローレル競馬場のワシントンDC出走への招待状がきた。陣営は菊花賞を蹴り、保田隆芳騎手と共に遠征した。…レースでは快調に逃げ、その直後にいたサーアイヴァーに並ばれた時に蹄をぶつけられ、最下位の8着に敗れた。タケシバオーの蹄鉄は大きく曲がっていたそうである。帰国後から騎手は古山良司となった。
古馬となり、保田騎手と臨んだ東京新聞杯(D2100)を、驚異的なレコードの6馬身差で圧勝した。10ヶ月ぶりの勝利である。「怪物」の異名を付けられた快進撃はここから始まったのである。
続くオープン(D1700)から再び古山騎手とコンビを組み、これも重馬場で驚異的レコードを叩き出し、大差勝ちした。しかも、2003年に馬場の大規模な改修工事が行われたため、同一コースが消滅し、この記録はついに更新されることがなくなったのである。
あの小柄で痩せて見栄えのしない馬は、500キロ前後の堂々たる馬体に威圧感を醸し、俊敏で力強い馬に成長していた。
タケシバオーは西下し、62キロの酷量を課せられた京都記念を勝ち、阪神のオープン(芝1600)で日本レコードを出して大差勝ちした。天皇賞はタケシバオーのあまりの強さから、わずか7頭立てとなった。もはやアサカオーもマーチスも敵ではなかった。私は映像で見るタケシバオーのゴール前の驚異的な差し脚、凄まじい瞬発力に釘付けになる。タケシバオーのゴール前1ハロンの推定タイムは10秒台なのであった。古山騎手が言ったそうである。「これまでのどの馬よりも強い。アサカオーが後方から来て差せるわけがない」
タケシバオーは体調を落として、宝塚記念を回避した。しかしジュライS(芝1800)には出走した。何と酷量の65キロを課せられ、しかも不良馬場である。タケシバオーはいつものように行き脚がつかず、後方を進んだ。古山騎手は諦めていた。しかしタケシバオーは直線で鋭く伸び、スイートフラッグをアタマ差かわした。古山騎手はこのレースで、それまでのどんな派手な勝ち方より、真のタケシバオーの強さを実感したという。
秋、毎日王冠(D2100)に出走し、62キロを背負って殿(しんがり)から鋭く伸びて3馬身半差の楽勝。そして日本で初めて獲得賞金が1億円を超えた馬になったのである。
2週間後、おりからエリザベス女王が来日し、スプリンターズSが英国フェア記念として中山競馬場で開催された。この日は女王陛下も競馬場に臨場されたのである。落馬負傷の古山に替わって吉永正人が手綱をとった。レースは後方から一気に伸び、前年の有馬記念優勝馬リュウズキを躱した。ここもレコードタイムである。「目一杯追っていたら、もう1秒は縮まっていたと思います」と吉永騎手は言った。
吉永正人騎手、小畑正雄オーナー、三井末太郎調教師らは、スタンドVIP席のエリザベス女王の前に立ち、祝いの言葉をかけられトロフィーを手渡された。
その後タケシバオーはもう一度ワシントンDCに挑戦したが、体調を崩したまま出走し、大差の最下位に敗れた。帰国後も体調は戻らず、有馬記念を断念し、そのまま引退することになったのである。
タケシバオーは実に丈夫な馬だったという。脚部不安とも病気とも無縁だったらしく、小畑正雄も、牧場で世話を続けた榊憲治も「本当の、無事之名馬の典型だ」と賞賛した。

私は大井のハツシバオーの強さに目を瞠った。これがタケシバオーの強さだったのではないか。ハツシバオーは数少ないタケシバオー産駒の「怪物二世」であった。羽田杯、東京ダービー、東京王冠賞の南関東三冠を圧勝し、さらに東京大賞典も圧勝して四冠馬になったのである。
後、中央の美浦の高橋英夫厩舎に移籍した。天皇賞を目指したが浅屈腱炎で断念せざるを得なかった。陣営は諦めず、暮れの有馬記念に挑んだが、グリーングラスの12着に惨敗した。レース中に脚を痛めており、そのまま引退することになった。
種牡馬となって、朝日CCを勝ったハツシバエースを出した。しかし種牡馬としては恵まれず、いつしか用途変更となって消えていった。ハツシバエースは騸馬のため、タケシバオーの血は途絶えた。