動物の人名、二つ名のこと

昔、子どもの命は儚かった。そのため日本では、子どもの名前に動物の名を入れることが多かった。どうか元気に無事に育って欲しいとの願いを込めて、強そうな動物の名を付けたのである。
南方熊楠は、藤白神社に籠もる熊野神と境内の楠の巨樹から名付けられた。むろん、熊の強さと楠の長命の願いが込められている。熊楠は幼少の頃、ずいぶん身体が弱かったらしい。それが長ずるに天狗(てんぎゃん)と呼ばれるほどに、野山を駆け巡り書物を渉猟する少年となり、アメリカ、イギリスと渡り歩き、ロンドン天文学会の懸賞論文で一位をとり、大英博物館の人類学、考古学、宗教学、植物学、博物学等の書籍をほとんど読破し、その空飛ぶ「てんぎゃん」の如き思考と想像力を、七十四歳で没するまで、縦横無尽にめぐらした。天才、怪物である。私の思考も、せめて雀のようにあちこち支離滅裂に飛び回りたいと思うのだ。

坂本龍馬も空想動物・龍と、馬のように速く力強く、雄勁にということで名付けられたのであろう。勝海舟はこれも空想動物・麒麟から一字とり、麟太郎といった。吉田松陰は寅之助で、板垣退助は猪之助である。中江兆民は竹馬で、その弟は虎馬である。兆民は長男に丑吉と名付けた。
飛鳥時代の蘇我馬子(そがのうまこ)については、数年前に書いたことがある。この馬子の名も、馬力に満ち、雄勁、俊勁であれと、父の蘇我稲目(いなめ)が名付けたのではなかろうか。蘇我氏の飛ぶ鳥も落とす権勢は、馬子によって確立された。敏達帝の時に右大臣になり、用明、崇峻、推古帝に仕えた。というより、彼等を担ぎ、操ったのである。ちなみに馬子の祖父は蘇我高麗(こま)、曾祖父は蘇我韓子(からこ)で、渡来系の出自を忍ばせる。

陰暦の五月二十八日に降る雨を「虎が雨」という。虎御前という遊女の流す涙雨で、俳句の季語である。太陽暦の七月で、梅雨あけ前の雨であろうか。これに関しては「人のとなりに『生き物たちと自然の呼び名』」で既に触れた。
虎御前については「吾妻鏡」や「曾我物語」に描かれる。鎌倉時代初期、兄の曾我十郎祐成(すけなり)と弟の五郎時致(ときむね)が、源頼朝が催した富士の裾野の巻き狩りを利用して、親の敵・工藤祐経(すけつね)を討ち果たした。十郎はこの時に討たれ、五郎も翌日処刑された。虎御前は十郎の愛妾で、大磯の遊女であった。十郎の死を知って虎御前は泣いた。その後虎女は曾我の里に兄弟の母を訪ねて慰め、箱根権現社に十郎ゆかりの馬を奉じて出家し、信州の善光寺に参り、大磯の寺で小庵を結び、兄弟の供養に生涯を送った。
虎御前、虎女の名の由来について、柳田國男が「妹の力」で触れているが、おそらく彼の持って回った推理は間違いだろう。虎女の母も平塚の遊女(夜叉王という名前)で、生まれて来た娘のこの先の境涯を想い、強く逞しく、しなやかに健やかに生きて欲しいという単純な願いから、虎と名付けたに違いない。

宮崎㴞天、職業は「革命家」。特徴は暑苦しいまでの情熱、熱血である。いわば「情熱大陸浪人」である。彼の本名も虎蔵という。また桃中軒雲右衛門の浪曲に熱烈感動し、家に押しかけて熱血直情を吐露、弟子入りし、桃中軒牛右衛門を名乗った。
ちなみに牛右衛門が博多で唸った際、多額のご祝儀をくれたお大尽が炭鉱王・伊藤伝右衛門である。後に㴞天の長男・宮崎龍介は、伝右衛門の妻・白蓮と駆け落ちをし、白蓮事件として世情を賑わした。朝ドラの「花子とアン」で、花子は白蓮をいつまでも「蓮様」と呼び続けるのだが、それは柳原白蓮(燁子)が大正天皇の従妹だったからである。花子「てっ、蓮様…」㴞天「てっ!龍介…こんなことして大丈夫なのか?」

三田村鳶魚の「江戸生活事典」に「二つ名の異名」という一節がある。勝手な想像だが、彼の語り口は古今亭志ん生に似ていたのではあるまいか。
「江戸時代の人は、二つ名のあるやつといえば悪党にきまっている、と考えたくらいのものですが、…あかがしらの八十郎でありますとか、ひげの七兵衛でありますとか、カピタンの伊右衛門だとか、かたびらの伝助だとか、からざけの次郎吉だとかという風に、皆名前がついています。これが二つ名前のある、異名を背負っているやつで、どうしてこういうことになったかといいますと…」
池波正太郎の「鬼平犯科帳」に登場する盗人も、みな二つ名の異名を持つ。血頭の丹兵衛、蓑火の喜之助、霧(なご)の七郎、雨乞い庄右衛門、掻堀のおけい、雨引の文五郎、犬神の権三、土蜘蛛の金五郎…禍々しくも、わくわくする二つ名ではないか。
江戸の頃から掏摸たちにも二つ名があった。彼等は最下層民であった。明治に入ってから、見るからに乞食然とした風体の彼等の稼業はやりづらくなった。それを大革新した掏摸の親分こそ、「巾着屋の豊」こと小西豊吉であったという。
彼の改革の第一は服装である。和装洋装、商人風、紳士風、官吏風、ときに鹿鳴館にも出入り可能な出で立ちである。彼の一統は対象を庶民からブルジョワジーに変え、また満員の市電は絶好の稼ぎ場となって、その収入は一気に上昇した。一方の掏摸の親分「清水の熊」こと清水文蔵は、地方に主眼を置き、京阪、中国地方まで活動した。その弟子達はツヤ常、青寅、ノッポの金、華族の新助、高野の徳、チビ伊之、オシシの勝…などの異名を持つ。熊や寅などはともかく、オシシとは獅子か、あるいは狒々の江戸訛りか。

明治三十年代、巾着屋の豊の跡を引き継いだのは「湯島の吉」と呼ばれ、また「鼈甲勝」が台頭した。清水の熊の跡を継いだのが、苦み走った実にいい男で「仕立屋銀次」こと富田銀三である。この三人が帝都掏摸界の三親分である。
仕立屋銀次の本業は和服の仕立屋である。腕が良かったらしく、主要取引先に大丸呉服店を持ち、大いに繁盛した。彼の店では多くの弟子達がいた。
父の仕立屋兼洗濯屋・富田金太郎は、浅草猿屋町警察署から任命されて、刑事探偵としても働いていた。江戸の岡っ引きの名残である。倅の銀三も父と共に刑事働きを手伝った。銀三の内弟子・クニは清水文蔵の妾の娘である。二十六歳の銀三は十八歳のクニと通じ、彼女を内縁の妻とした。こうして掏摸界の大親分・清水の熊が彼の義父となったのである。
「清水の熊」の葬儀の際に撮影された集合写真がある。壮観なほどのイベントに思える。熊亡き後、子分たちから推され、銀三が彼等の元締めとなった。明治三十一年、彼が三十二歳のときである。「仕立屋銀次」は人の懐から掏る技倆を持っていなかった。彼の技倆は人を束ねることと、経営管理能力である。
翌三十二年、横山源之助が「日本之下層社会」を著し、日本のルポルタージュ、ノンフィクションライターの魁を成した(世界に於けるルポルタージュの魁は、1722年、ダニエル・デフォーの「ペスト」であろうか)。ちなみに、横山源之助はたびたび晩年の樋口一葉を訪ね、親密に話し合っていたらしい。私は竹中労の著作の中にその一、二行の記述を見出したが、なぜかこの二人の間に、尊敬、敬慕、恋にも似た気分があったように思えてならない。それとも一葉は源之助にとって単なる取材対象者だったのだろうか。
さて、銀次は根っからの親分肌の男であった。子分たちの面倒見もよく、彼等に身綺麗な紳士風の出で立ちをさせた。東海道線、奥州線など鉄道での「箱師」の業績を伸ばし、子分たちの台帳を整えて稼ぎを記録化した。彼自身警察には顔も利くが数人の顧問弁護士を雇い、子分の逮捕や釈放交渉、裁判に当たらせた。クニの母親に質屋をやらせて盗品を捌き、不動産業(数十軒の貸長屋)を営んだ。また関西や地方の掏摸界とも互助会的な関係を深め、彼等と盗品売買の一大闇市場を形成した。子分の数も二百五十名を超えた。一の子分は仙吉こと小幡嘉一郎、次が大清こと町田清一郎、駱駝こと保科猪之助と続く。仕立屋銀次は、やがて跡目を仙吉に譲り、会社でいうなら会長職に退いた。

日露戦争後、政府は掏摸の大規模な検挙に乗り出した。国民不満のガス抜きの感がある。初の政党内閣・西園寺政権は薩長藩閥の圧力に潰され、山県有朋の傀儡的・桂太郎内閣が作られた。その主要政策は日韓併合である。
明治四十二年一月、幸徳秋水はクロポトキンの「麺麭(ぱん)の略取」を翻訳刊行したが、たちまち発禁処分を食らった。三月、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、山本鼎らの詩人、画家たちの「パンの会」の発会式に、五十人もの警官が出動した。無政府主義者の集会と思ったのである。パンの会については、競馬コラム「馬名で遊ぶ」で触れた。若き一群の芸術家たちが隅田川をセーヌ川に見立て、たわいもない芸術を論じる暴飲暴食の会のことである。
五月、秋水は「自由思想」誌を刊行したが、これも発禁となった。六月、新潟県知事・柏田盛文のフロックコートから、伊藤博文公から拝領した金時計を掏ったという罪で、仕立屋銀次一統は一斉に検挙された。この金時計に関しては完全な冤罪である。政府の方針は、主義者も最下層の地下集団も、根絶やしにするためなら、でっち上げも可としたのである。
翌四十三年五月、逮捕後一年も拘留された仕立屋銀次に判決が言い渡された。
「被告銀三ヲ懲役拾年及ヒ罰金弐百円ニ処ス」…これは初犯の、たかが掏摸ごときの刑としては異様に重いものであった。新聞の紙面が仕立屋銀次の記事で占められていたその片隅に、「信州明科爆裂弾製造事件」がひっそりと載り、宮下太吉なる工員が逮捕されたと報じられていた。その数日後の六月一日、無政府主義者幸徳秋水が逮捕され、彼に関わりをもった人たちが続々と検挙されていった。その中に竹久夢二もいた。これは「掌説うためいろ」の「ハレー彗星余燼」に書いた。大逆事件である。…