大坂本町糸屋の娘、姉は十六妹は十四、諸国大名弓矢で殺す、糸屋の娘は目で殺す … 岩波新書「四字熟語ひとくち話」(岩波書店辞典編集部編)は実に楽しい良書である。品の良いユーモアがあり、知性というのはこうありたいと思わせる。冒頭の俗謡風の文句は、四字熟語「起承転結」の好例として頼山陽が示したものとされる。先ず発端(起)、それを承けて展開し、まったく別の話題に転じたかと思うと、最後はうまくまとめて結ぶ。なるほど、なるほど。
この本には「動物尽くし」という章が設けられており、牛飲馬食、欣喜雀躍、意馬心猿、馬耳東風、多岐亡羊…等がある。そして杯盤狼藉、周章狼狽、豺狼当路。これらはオオカミの話である。
大学一年の英語の授業で、ジャック・ロンドンの「野性の呼び声」を原文で読まされた。セントバーナードとシェパードの混血犬が、過酷な自然の中で狼の血を呼び覚ましていくという物語であった。続いて「白い牙」を読んだ。半狼が凄絶な環境と運命に翻弄されながら、やがて人間社会で暮らすようになるという話である。…「狼の息子」「海の狼」「野性の呼び声」「白い牙」はジャック・ロンドンを世界的な作家にした。その著作は世界各国語に翻訳されて、当時、彼は世界でも最高の原稿料をもらい、最も有名で最も人気のある作家だった。後にレーニンはその死の床にあっても、ジャック・ロンドンの小説を手放さなかったという。
「野性の呼び声」も「白い牙」もリアルで苛烈な描写を特徴とした小説である。
しかし私が強く惹かれたのは、それらの小説よりも、作家ジャック・ロンドンの凄まじいまでに奇なる人生であった。
彼は1876年、サンフランシスコに生まれている。実父は占星術の教授で、母は農家の娘だった。二人は正式に結婚しておらず、母が彼を妊った時、実父は堕胎を迫り、母は本気ではなかったにせよ自殺未遂を図った。彼女は家から叩き出された後、貧しい労働者と再婚した。こうしてジャックは貧窮の中に生まれ、生涯実父の顔を知らなかった。
一家はオークランドに移り住んだが、父が食料品店の経営に失敗したため、家族は転々と各地を流浪し、再びサンフランシスコに戻った。少年は新聞配達をして家計を助け、暇を盗んでは公立図書館の書物を貪るように読み耽った。メルヴィルの「白鯨」は何度も読み返した。彼は公小学校を卒業したものの、どん底の極貧生活のため進学できず、十三歳で缶詰工場に働きに出て、一日十四時間から十八時間の労働に従事した。
その出生や家庭環境から劣等感を抱き、含羞がちの少年であったが、書物と海と冒険を愛した。やがて高々と船乗りの唄を歌い、自らボートを操り、牡蠣泥棒を働くようになった。十五歳の頃には牡蠣の密漁船団を率い、牡蠣泥棒王子と呼ばれ、美貌の少女を情婦としていた。毎日酒と喧嘩と刃傷沙汰、射ち合い沙汰で明け暮れ、海賊行為を働く大胆不敵で逞しい少年だった。やがて港湾警察に目をつけられる。密漁監視部にスカウトされたのだ。
約一年、密漁監視巡査の仕事を勤め、その後八十トンのアザラシ猟の船乗りとなり、日本(横浜、小笠原)、朝鮮、シベリアへと七ヶ月の航海に出た。彼が帰国した時、全米は恐慌状態の最中で失業者が溢れていた。
オークランドでやっと一日十時間労働で賃金一ドルの黄麻工場に仕事を見つけた。やがてサンフランシスコのコール紙が募集していた懸賞文に応募し、一等となって二十五ドルを稼いだ。彼の「日本の沿岸での台風」は「何より驚くべきことは、この少年作家の示している把握の大きさ、着実な表現力である」と評価されたのだ。しかし奴隷のような過重な肉体労働の日々が続いた。
彼の身体の中を冒険の呼び声が奔り巡った。ジャックは浮浪者となって冒険の旅に出た。有蓋貨物列車に飛び乗ったのだ。こうしてホーボー(渡り鳥労働者)となって、無賃で有蓋・無蓋貨車を使って移動し、冬のロッキー山脈を越え、大陸を横断しカナダで浮浪者狩りに会って逮捕された。
彼の中にある信念めいたものが芽生え始めていた。帰ってきた彼はサン・シモン、フーリエ、プルードン等の著作を読みふけり、マルクスの「共産党宣言」に出会った。社会主義こそ世界で最も公正で偉大なものと思われた。ジャックは十四、五歳の少年少女の中に入って基礎の勉強を始め、やがてカリフォルニア大学バークレー校に入学した。
大学の図書館の書物を読み漁り、授業を受け、作家となるべく文章を書きまくり、あちこちの雑誌社や新聞社に送り続け、きつい肉体労働でわずかな賃金を稼ぎ、苦学と言うには余りにも過酷な貧窮生活を送った。しかし一学期で彼はそれを放擲した。船に乗ってゴールドラッシュに沸くアラスカへ、金鉱探しの冒険の旅に出たのである。
金鉱探し仲間では、彼は最年少だった。彼らはユーコン河を何百マイルも遡ったクロンダイクに辿り着き、ユーコンに流れ込んでいる幾つもの小川を探鉱した。ジャックはハンサムで逞しく、議論をしても喧嘩をしても労働をしても、誰にも負けなかった。嵐の中で火を燃やし付けることもできたし、料理も上手く、零下三十度の中でも温かく眠れる天幕の張り方にも慣れていた。しかしアラスカには新鮮野菜が皆無だったため、とうとう壊血病になってしまった。
彼は無一文で故郷に帰ったが、金鉱探しから多額の収入を稼ぎ出した。クロンダイクものと呼ばれる小説である。「凍路を旅する者のために」「白い静寂」「狼の息子」「四十マイル基地の男たち」「千度もの死」「クロンダイク途上の急流を降る」「北方のオデッセイア」「クロンダイクの経済学」「胆力と不屈の精神」…それらを集めた短編集「狼の息子」が出版された。しかし相変わらず貧しく借金は減らなかった。鬱々とした日々を過ごすうち、ある着想が彼を揺さぶった。犬を主人公にした小説「野性の呼び声」である。これが売れた。彼は一躍世界的作家となり、以後五十冊を超える著書と、膨大な数の短編小説を書いた。
日露戦争の勃発は不可避のようであった。ジャックは社会主義者として、あらゆる戦争に反対だった。戦争とは資産階級の利益を保護あるいは膨らませるために、労働者階級が戦場に駆り出されるものなのだ。彼は近代戦がどのように文明を破壊するのか、また「黄禍」の本質と真実について関心があった。彼は一番報酬の良いハースト系通信社の記者として横浜に入った。世界中の特派員たちは、夜な夜な日本政府の饗応を受け、誰も腰を上げようとしなかった。
ジャックは独り朝鮮に渡ったが、ロシアのスパイとして捕らえられ、長時間の厳しい尋問を受けるはめとなった。やがて彼は数頭の馬を買い、馬丁を雇って、日本軍の進む場所を予想して次々に先回りし、取材を続けたのである。彼は再びスパイ容疑で拘引され、横浜に送還された。
帰国したジャックは農園を買い取り、それを拡げていった。そこに多くの失業者を雇い入れた。各地で講演をし、作家として多額の収入を得たが、それよりも多額の支出が続いた。借金はいつまでも減らず、むしろ増えていった。
しかも再び勃然と冒険心が沸き起こった。それはスクーナー船を建造し、世界一周の航海に出ることだ。彼は船の設計に没頭し、建造監督と船大工と乗組員を雇い入れた。しかし彼等は素人に毛の生えたと言うか、プロから毛の抜けた程度の連中だった。彼流の失業者に仕事を与えるものだったのだ。
その船「スナーク号」は大幅に完成が遅れ、費用は増大するばかりだった。彼はサンフランシスコでの完成を断念し、未完成のスナーク号をハワイに曳航した。やっと完成した船に日本人少年トチギ、ワダ、ナカタ等何人もの未経験者を雇い、よろよろとタヒチ、フィジーと航海を続けた。船はたちまち損傷し、乗組員も病気に罹り、まるで病院船のようであった。そんな船中で彼は短編小説を書き続けていた。しかしついに病気に征服され、彼等は別の船でシドニーに送ってもらった。帰国した彼には膨れあがった借金が待っていた。
冒険航海の作品は多くの収入をもたらしたが、それより多い支出が続いた。彼はまた農場を拡張し、多くの失業者を雇い入れた。まるで空想的社会主義者ロバート・オウエンの、労働の共同体のようではないか。
それでも彼には最後の夢があった。ソノーマ渓谷を見下ろす地に、豪壮な城のような邸宅を建設することだった。彼はその王城の実現に没頭した。再び大工、石工、土木作業員や庭師、内装家等を雇い入れた。これもロンドン流の失業者対策なのである。彼はこの豪邸を「狼城」と名付けた。狼城は容易に完成せず三年を要した。…狼城がやっと完成したその夜、建物は炎に包まれた。朝日がまだくすぶり続ける灰燼を照らし出した。何者かの放火と見られている。
やがてジャック・ロンドンは燃え尽きたかのように心身共に衰弱し、モルヒネによって自死したのである。
大胆不敵、国士無双、人間青山(じんかんせいざん)、波乱万丈、狼城炎上、嗚呼ジャック・ロンドン胡蝶之夢…。
アーヴィング・ストーン「馬に乗った水夫」
(橋本福夫訳 早川書房)