鼠小僧次郎吉異聞

学生時代、秩父困民党のことを知った。西南戦争を鎮め、富国強兵を鼓舞し、国家としてその礎を固めつつあった明治政府に、一地方の困民が乱を起こした。党の総理は侠客・田代栄助である。暴徒の乱というより内戦に近い。このことは、経済学・財政学に関心があれば、松方財政がもたらした松方デフレについて学ぶことができ、歴史や思想史・政治思想に関心があれば、自由民権運動について学ぶことができるだろう。私は西野辰吉の「秩父困民党」や色川大吉の「明治精神史」、井出孫六の「秩父困民党群像」等の多くの著作を読み漁った。そして頭の中で、一本の名作と言ってよい映画を観た。
井出孫六は信州佐久の古い造り酒屋の出である。その一族から秩父困民党に呼応した男が出た。また佐久地方には多くの敗残兵が逃げ込んでいる。こうしたことから、彼は秩父困民党に強い関心を抱き続けたのである。
佐久と秩父の間には、重畳たる山襞と幾つもの谷(やつ)を渡り、幾つもの峠を越えなければならない。彼は何度も現地に足を運び、古老から話を聞き、史料を読み込んできた。その中から「峠の軍談師 連作・秩父困民党稗史」という面白い本が生まれた。どこまでが口碑で、どこからが歴史なのか、また作者によるフィクションなのか、古老の記憶同様に不分明で、スピンオフした「異聞」もある。それが楽しい。「もう一人の鼠小僧」もその一つである。

西秩父(にしやつ)に、江戸時代から続く彦名屋という旅館(はたご)がある。長い年月で黒光りした廊下、必ずぎしぎしと音を立てるウグイス張りの階段。この宿は、往時繭や生糸を扱う商人たちで賑わったという。ここで度々、困民党指導者たちによる蜂起準備の密議が行われた。またここに、国事係警部や警部補たちも集まっては、神主の密告を聞き取り、度々謀議を凝らしていた。両者が鉢合わせしなかったことは、奇跡と言っていい。
江戸時代、西秩父は天領である。彦名屋は代官のお休み処であり、お白洲も設けられていた。当然牢屋もあった。天才にして稀代の山師・平賀源内や国学者で神道家の井上正鉄(まさかね)も草鞋を脱いでいる。源内は秩父に鉱物調査や金鉱発掘に来ていたらしい。ここの古井戸の傍らに、挽き臼ほどの大きさの平らな石があり、鼠小僧次郎吉と因縁のある「鼠石」と呼ばれている。
井出孫六は宿の主人から一束の古文書を示される。「先代の手文庫にありまして…なにぶん達筆すぎて読めません。鼠石の縁起というものらしく…」
「化政・奥武蔵風物詩稿」とあって、誰が書いたものかも分からない。化政とは文化文政時代のことである。
文政九年春、武州、上州、信濃の山間一帯の笹が一斉に開花した。笹は六十年に一度突然花開き、やがておびただしい実をつけ、一斉に枯死する。花は淡黄色で、陽の光に映えて黄金色に輝くという。「会津磐梯山は宝の山よ/笹に黄金が/エエまた なりさがる」のである。信濃国はこれを食糧に充て、凶作に苦しんでいた人民を救った。
秩父郡の代官・川嶋昌太夫は赴任一年。彼は諏訪の社に幔幕と舞台をしつらえさせ、西秩父十八カ村の大庄屋、名主を招待して笹の花の鑑賞茶会を催した。と言っても、その費用は大庄屋や名主らの負担である。この日のアトラクションの真打ちは「石間(いさま)の神楽」で、特に囃子の笛に笹の葉をつかう吉蔵という評判の若者である。彼が笹笛を吹くと、いつしか熊、鹿、猿、猪といった山の生き物たちが集まり、吉蔵の周囲にじっとうずくまって耳を傾けるという。まことに吉蔵の妙技は人々の魂を揺さぶった。最後に少女面と鬼面、天狗面が舞う石間漆木の古い嫁入唄となった。無数の雲雀が空高く舞い上がり、吉蔵の笹笛に和するがごとく囀った。そのとき社殿の奥から番(つが)いと思われる二匹の鼠が飛び出し、一直線に川嶋昌太夫に向かって走った。彼はもんどりうって床几から転げ落ちた。この椿事が茶会を台無しにした。

西秩父では笹の実を収穫する前に異変が起きた。野鼠が全ての笹の実を食べ尽くして異常繁殖したのだ。まさに鼠算なのである。家々のお蚕も食べられ、山々の若木も囓り尽くされ、西秩父はあっという間に死の山に変貌したのである。これらの事態に代官・川嶋昌太夫は無為無策であった。飢えて狂った野鼠の大群は荒川に飛び込み、川を真っ黒に埋め尽くして流れていった。
ところが東秩父の忍(おし)藩や川越藩では全く鼠害が出なかった。両藩は笹の開花と同時に高札を立て、笹を焼き払わせた。忍藩はさらに近隣藩や江戸から「猫」を買い集めて町々に放ち、西秩父一帯から「蝮」を買い集めて山野に放ったのである。西秩父の山野には野鼠の天敵・蝮もいなかったことになる。
西秩父の村々に、津谷木の天狗様の祠の「猫石」が評判となった。その祠から猫石をもらって、井戸端に置くとその家に鼠は近づかないという噂が流れ、街道から二十町も入る祠までの山道に、行列ができた。
自分の無為無策を幕府や領民から糾弾されることを恐れた川嶋昌太夫は、配下を使って吉蔵に関する噂を流布させた。このたびの凶事は、吉蔵の笹笛に取り憑いた天狗の霊がしたことらしい、あの番いの鼠が笹の実を食って仔を増やし続けたらしい、いったん人間に取り憑いた天狗の霊はその人間が死ぬまで去らぬらしい、それじゃ漆木の吉蔵は獄門だなあ…。こうして吉蔵は捕らえられ、彦名屋の牢に入れられた。

西秩父に秋口の冷たい霖雨が降り続いた。彦名屋に代官一行が入った。明日、吉蔵がお白洲に引き出され、梟首(さらしくび)を言い渡されるらしい。その夕、雨に濡れそぼった三十前後の色白で小柄な男が、小さな行李ひとつを肩から提げて、彦名屋のたたきに立って宿を請うた。腰に大小は帯びておらず、町人らしい。代官一行の急なお泊まりがあって、二階端の小さな部屋でよろしければと番頭が言い、足を洗わせてから女中に案内させた。女中が客の行李を持つと、それは小判でも詰まっているかのように、ずっしりと重たかった。女中はきしむ階段を上がりながら、思わず客を振り返った。後ろから全く音がしなかったからである。部屋に案内した女中は、代官一行の宿泊の理由と、吉蔵という可哀想な若者の話をした。
「これはとんでもねえ処に泊まっちまったな。俺はお白洲も梟首もでえ嫌えだ。明日朝一番で早発ちするぜ」と男は言った。
その丑満刻、雨が叩きつけるように降った。この雨と冷気を避けて、牢の不寝番の姿はなかった。吉蔵の耳に囁きが聞こえた。格子戸の外に黒い人影がある。「笹の葉を持ってきたぜ。これで笹笛を吹け。騒ぎが持ち上がって奴らがやってくる。その時扉をすり抜けて井戸端に走れ」…黒い影が消えた。
哀切な笹笛の音が彦名屋に流れた。「曲者だ、出会え、出会え」牢に捕吏たちが殺到した。見ると牢格子に無数の飢えた鼠たちが取り付き、二寸角の格子戸を囓っていた。その異様な光景を前に捕吏たちが立ち竦んだ。格子戸が音を立てて倒れると、巨大な鼠が飛び出し闇の中に走り去ったかに見えた。その黒い影は井戸のある闇に向かって走り、そして大きな水音がした。捕吏たちが提灯をかざし、暗い井戸を覗き込むと、光った波紋が見えた。
夜が明けて井戸浚いが行われた。底から小さな鼠の死骸と、挽き臼のような石が引き揚げられた。その朝、小柄な男が若い従者を伴い、足早に峠を越えた。

文政・天保の大江戸を騒がせた鼠小僧の墓は二つある。両国回向院の墓の命日は天保二年八月十八日となっている。千住回向院の墓の命日は天保三年八月十九日である。
天保二年夏、鼠小僧は袋小路に追い込まれ、三味線堀のさる大名中屋敷の屋根裏に潜んだが、絶体絶命の危地に陥ってしまった。四方数町、南町奉行所の捕り方が十重、二十重に囲んでいた。するとどこかで笛の音がする。哀しげな音色である。それは捕り方たちが囲む屋根の上からする。そして移動している。怪しい奴。屋根の上を黒い影が走る。捕り方たちはその方向に陽動された。「あれは吉蔵の笹笛じゃあねえか」…鼠小僧の耳から笹笛の音が遠ざかった。
翌朝、捕らわれた男は名乗った。「鼠小僧たあ、おいらのことでえ…」
しかしそれからほぼ一年、鼠小僧は大江戸を震撼させ続け、また捕らえられたのである。
西秩父の石間漆木。渓谷の斜面に蒟蒻畑がある。その中腹の笹に囲まれた所に、秩父騒動の巨魁、義侠の人、秩父困民党副総理・加藤織平の墓がある。その近くに「義人鼠小僧次郎吉之碑」があり、これが「吉蔵様の碑」であるらしい。

井出孫六「峠の軍談師 連作・秩父困民党稗史」
(河出書房新社)