安曇野

この一連の「虹の橋文芸サロン」に、「私は風だ…」という一文を書いた。
大江健三郎の子息・光君はラジオから流れる野鳥の声に癒やされ、その優しい囀りと交歓していたのだろう。彼は脳に重い障害をもって生まれたが、耳に入る野鳥の声を通じ、何者かからのメッセージを受け止めていたにちがいない。彼はそのメッセージを伝えるため、「使命」を担って生まれたのだろう。
壮大な交響詩のような丸山健二の「千日の瑠璃」も、重い障害をもって生まれた少年・与一が、オオルリの幼鳥と出会うところから始まる。与一少年も、自分の両の掌に収まった、ちっぽけな、今にも死にそうな小鳥の温もりと、この世のものとは思えない美しい瑠璃色の羽根に感応したのだ。保護したオオルリは元気になり、やがて全身で、この世のものとは思えない美しい声で鳴くのだ。少年の損なわれた身体は、彼が居る日常的な風景を差異化する。オオルリからの啓示に感応した彼が身を置いた風景は、一篇の詩のように差異化するのだ。
丸山健二は安曇野の小さな町に暮らすという。その碧空や満天の星空が、湧水やそれが作り出す清流が、そして彼と共に風景を見続ける愛犬(真っ黒なムク犬として描かれている)が、彼を夢中にさせる植物との格闘のような作庭が、彼に文学的な啓示を与え続けているのだろう。

安曇野の名が全国に広まり一般的になったのは、臼井吉見の十年の長きに渡って書かれた長編小説「安曇野」に負うところが多いとされる。彼は南安曇郡三田村(現安曇野市)に生まれた。
「安曇野」は明治の青壮年を描いた歴史小説、青春文学で、登場人物は実在の人たちである。同地出身の相馬愛蔵、彫刻家・萩原碌山、松本出身の社会主義者・木下尚江、愛蔵の妻で仙台出身の良などである。良はその号を黒光という。
愛蔵・黒光夫妻は当初、安曇野で養蚕事業を営んでいたが、黒光の病気療養のため上京し、そのまま本郷で中村屋というパン屋を開業した。彼等は本邦初のクリームパンを売り出し評判となった。中村屋はその後新宿に移転し、同じ場所に今日まで続いている。
愛蔵・黒光夫妻は文学や芸術に親しみ、また社会事業やキリスト者として知られる。夫妻は萩原碌山などをはじめ、多くの芸術家を支援した。店の裏にアトリエを作り、そこはさながら文化人のサロンとなった。文化人ばかりか、革命家や志士も集まった。夫妻は右翼の領袖・頭山満に頼まれて、インド独立運動の志士ラース・ビハーリ・ボースを匿った。ボースはインドカレーを夫妻に教えた。これが中村屋の名物となり、やがてカレー料理は日本全国に広まっていったのである。また、愛蔵・黒光夫妻はロシアの亡命詩人ワシーリ・エロシュンコを自宅に匿い、盲目の彼を保護した。

そう言えば、井上真央主演のNHK連続テレビ小説「おひさま」は、安曇野と松本が主要な舞台だった。病弱な母親のため安曇野に移り住んだ一家、嫁ぎ先の松本の蕎麦屋、そして戦後、主人公の家族は再び安曇野に移り住むのである。その舞台は蕎麦畑が広がり、湧水がつくり出す清らかな小川が流れ、かたわらに絵本そのままの家が建っているのだ。

画家でエッセイストの玉村豊男は東京生まれである。パリやロンドンの喧噪や裏町をゆるりと旅し、緻密なイラストをあっさりと描き、エッセイを達意の文章で軽妙洒脱に書いた。彼が表現する食べ物はいかにも美味しそうに思え、「ゆとり」が彼の雑学に深みとコクを醸し出す。まるで彼の周りにだけ、ゆっくりとした時間が流れているようであった。つまり玉村豊男は時間遣いの名人なのだ。
その彼が二十数年前に、長野県のゆったりとした町に移り住んだ。おそらく、もっとゆったりとした時間や、叢生する木々や草花に囲まれた自然が、彼をその地に呼び寄せたのだろう。彼はそこで草花の絵を描き、小さな農園を営み、大好きなワインを自ら作り、採れたての野菜を使って料理を作り、仲間たちと健康な美食と談笑を楽しむ。何と贅沢な時間だろう。しかし、そうした時間はつくり出せるものらしい。玉村豊男はその時間つくりの達人なのだ。

田舎に転居した有名人に俳優の柳生博がいる。彼は茨城県の出身で、時代劇でおなじみの「柳生新陰流」を創出した柳生宗厳の末裔らしい。柳生家に伝わるしきたりに、「十二歳になった男子は一人旅に出す」というものがあったらしい。彼も十二歳で一人旅に出た。そこは山梨側の八ヶ岳の麓であった。
テレビの画面が白黒だった頃、シャンソン歌手・旗照夫主演のNHK夕方の連続ドラマに、柳生博はその友人役として出演していた。やがて彼は、日本のレコード歌手第一号・佐藤千夜子の半生を描いたNHKの連続テレビ小説「いちばん星」で、童謡詩人の野口雨情を演じた。これは茨城出身だった雨情の木訥な語り口に、同県出身の柳生がぴったりだったからだろう。
その後柳生博は、八ヶ岳が望める山梨側の大泉村(現北杜市)に引っ越し、田舎暮らしを始めた。そこは彼が初めての一人旅で訪ねた所である。その地で始めたのは、雑木林に愛着した作庭である。雑木林は実はゆたかな風景なのである。日々、森歩きと野鳥の囀りを楽しみ、作庭と植林と菜園にいそしみ、囲炉裏端で家族や仲間たちと談笑し、エッセイを書く。クイズ番組やバラエティ番組、ナレーション出演の仕事で上京するのにも全く不便は感じない。大事なのは、欲しかったのは、そういう環境や時間なのだ。森はいろいろなことを教えてくれる。
こうして彼はギャラリー・レストラン「八ヶ岳倶楽部」開き、陶芸家などの作品を展示し、家族や仲間たちと作庭や植林、散策路づくりを楽しんでいるという。そして彼は日本野鳥の会の第五代会長となった。

おそらく自然は想像以上に厳しく、田舎での暮らしはそう容易いものではあるまい。しかしその労以上の楽しみや、ゆたかな風景、ゆたかな時間、ゆたかな自然との交歓が得られるのだろう。