平家物語の馬たち

日本軽種馬登録協会が認定しているサラブレッドの毛色は、鹿毛、黒鹿毛、青鹿毛、青毛、芦毛、栗毛、栃栗毛、白毛の八種である。昔読んだ本に「黒栗毛」というのが出ていて、その時に黒栗毛がどんな毛色なのかといろいろ調べたことがある。月毛、鬼蘆毛、童子鹿毛、目粕毛、黄河原毛(きかわらげ)等という馬の毛色も頻出していた。その本とは「平家物語」である。
昔の軍記物にはたくさんの馬が登場する。特に「平家物語」である。はたして坂東武者と馬は切り離すことができない。坂東(関東)の地は律令の世からはみ出した諸国の浮浪人たちによって墾田された。彼らは貴族や社寺にそれを寄進し、その代わりにその土地(荘園)の管理人となった。墾田した一所を管理する地頭として保証してもらったのである。彼らはその一所を守ることに命を懸けた。「一所懸命」である。やがて彼らは豪族となり、荘園に牧も営なんだ。こうして坂東武者たちは騎乗と騎射を得意とした。
「平家物語」に登場する坂東武者たちの騎馬姿ほど、凛々しく描かれた文章もあるまい。ちなみに「平家物語」ほど、日本語のリズムの素晴らしさを感じる文体もない。「平家物語」のどこを開いてもリズムがある。

足利がその日の装束には、朽葉の綾の直垂(ひたたれ)に、赤革縅(あかがわおどし)の鎧着て、高角(たかづの)打つたる甲の緒をしめ、金作(こがねづくり)の太刀を帯(は)き、二十四さいたる切班(きりふ)の矢負ひ、滋籐(しげとう)の弓持つて、連銭蘆毛なる馬に、柏木にみゝづく打つたる金覆輪(きんぷくりん)の鞍置いてぞ乗つたりける。鐙(あぶみ)踏張り立ち上がり、大音声を揚げて「昔朝敵将門を亡して、勧賞(けんじょう)蒙つて、名を後代に揚げたりし、俵藤太秀郷(ひでさと)に十代の後胤、下野國の住人、足利太郎俊綱が子、又太郎忠綱、生年十七歳にまかりなる…」

東国の武者たちは「馬に乗つて落つる道を知らず。悪所を馳すれど、馬を倒さず」と自慢している。対する平家の武者も馬に乗って東国の討手に出立する。
「…大将軍には小松の権亮(ごんのすけ)少将維盛、副将軍には薩摩守忠度(ただのり)、侍大将には上総守忠清を先として、都合其の勢三萬余騎…。大将軍小松の権亮少将維盛は、生年二十三、容儀帯佩、絵に書くとも、筆も及び難し。重代の著背長唐皮(きせながからかわ)と云ふ鎧をば、唐櫃(からと)に入れて舁(か)せらる。道中には赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、萌葱匂(もよぎにおひ)の鎧着て、連銭蘆毛なる馬に、金覆輪の鞍を置いて乗り給へり。副将軍薩摩守忠度は、紺地の錦の直垂に、黒絲縅(くろいとおどし)の鎧着て、黒き馬の太うたくましきに沃懸地(いかけぢ)の鞍を置いて乗り給へり。」

「…奥の秀衡が許より、木曾殿に龍蹄(ようてい)二匹奉る。一匹は白月毛、一匹は連銭蘆毛なり。やがてこの馬に鏡鞍置いて、白山の社へ神馬(じんめ)に立てらる。」
広辞苑によれば月毛とは「芦毛のやや赤味のある毛色。桃花馬」とある。この毛色はサラブレッドにはない。また同じく白月毛とは「白みがかった月毛」とにべもない。
「…鎌倉殿(頼朝のこと)には、生食(いけずき)・磨墨(するすみ)とて、聞ゆる名馬ありけり。」
頼朝はこの磨墨を梶原源太景季(かげすえ)に与えた。「まことに黒かりければ磨墨とは附けられたり」とあるので、おそらく漆黒の青毛だったのであろう。また、生食は佐々木四郎に与えられた。
「佐々木四郎の給はられたりける御馬は、黒栗毛なる馬の、きはめて太うたくましきが、馬をも人をも傍(あた)りを拂つて食ひければ、生食とは附けられたり」とある。これは恐ろしいほどに気性の荒い、咬みつき癖のある未調教の馬だったのだろう。サラブレッドにも狂気を孕んだ「身食い癖」の馬がいる。かつて気性難で知られた種牡馬モンタヴァルやムーティエ兄弟には咬癖があり、その厩務員は生傷が絶えず、この馬たちは自らの胸の肉も食いちぎっていたという。

「木曾殿、その日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、いか物作(づくり)の太刀を帯(は)き、鍬形打つたる甲の緒をしめ、二十四さいたる石打の矢の、 その日の軍(いくさ)に射て、少々残つたるを、頭高に負ひなし、滋籐の弓の眞中取つて、聞こゆる木曾の鬼蘆毛と云ふ馬に、金覆輪の鞍を置いて…」この鬼蘆毛は馬の固有名詞であろうか。この記述は、義仲が落ちのびる最期の出で立ちである。
義経が一の谷の鵯越に向かうとき、「白葦毛なる老馬に、鏡鞍置き、白轡(しろくつわ)番(は)げ、手綱結んでうち懸け、先に追つ立てて、未だ知らぬ深山へこそ入り給へ」とある。芦毛は歳を取ると真っ白になる。これを白葦毛としたものだろう。この老馬、さながら競馬の本場馬入場時の誘導馬のようである。
この一の谷で、熊谷次郎直実は、「…褐(かち)の直垂に、赤革縅の鎧着て、紅の母衣(ほろ)をかけ、権太栗毛と云ふ聞ゆる名馬にぞ乗つたりける。子息の小次郎直家は、澤潟(おもだか)を一入(ひとしほ)摺つたる直垂に、ふし縄目の鎧着て、西楼(せいろう)と云ふ白月毛なる馬にぞ乗つたりける。旗指(はたさし)は、麹塵(きぢん)の直垂に、小桜を黄にかへいたる鎧着て、黄河原毛(きかはらげ)なる馬にぞ乗つたりける。主従三騎うち連れ、落さんずる谷をば弓手(ゆんで)になし、馬手(めて)を歩ませ行く程に…」
ちなみに澤潟は湿地や水田に自生する植物で、葉身は「矢じり」形をし「勝ち草」 とも呼ばれた。その花と葉は図案化されて武家の家紋になり、歌舞伎の市川猿之助一門の屋号「澤潟屋」とその家紋としても知られている。
さて、小次郎直家の乗った西楼は明らかに馬の固有名詞である。次郎直実の乗る権太栗毛も馬の固有名詞だろう。広辞苑によると権太とは「(浄瑠璃「義経千本桜」鮓屋の段の人物いがみの権太の名に基づく)①わるもの。ごろつき。②いたずらで手におえない子ども。」とある。しかし「平家物語」は「義経千本桜」よりずっと早い鎌倉時代に成立しており、この広辞苑の解説は間違っているのではないか。権太とは平安、鎌倉期から「すぐ噛みつく動物や人物のこと。気性の荒い動物や人物のこと」を指したのでないか。ちなみに「いがみの権太」の「いがむ」とは広辞苑には「①獣が牙をむき出してかみつこうとする。②転じて、人がかみつくようにどなりたてる。くってかかる。」とある。「いがむ」という言葉は早くからあって、そのような動物(犬猫や馬)や人物(子ども)を苦笑まじりの愛称として「いがみの権太」と呼んだのではないか。
おそらく、この熊谷次郎直実の権太栗毛は、気性が荒く咬みつき癖があったのだろう。司馬遼太郎によれば、明治初年に来日した外国武官は、日本陸軍の馬を見て、「猛獣のようだ」と驚いたとある。日本の馬は西洋のようには調教されておらず、また去勢されることもなかった。生食(いけずき)や権太栗毛のように、気性難があり、咬みつき癖があったと思われる。先の生食の記述など、まさに「猛獣」である。
さて落ちのびる本三位中将重衡の卿は、「褐に白う黄なる絲を以つて、岩に群千鳥縫うたる直垂に、紫裾濃(むらさきすそご)の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒をしめ、金作の太刀を帯き、廿四さいたる切班の矢負ひ、滋籐の弓持つて、童子(どうじ)鹿毛と云ふ、聞ゆる名馬に、金覆輪の鞍置いて乗り給へり。乳母子(めのとご)の後藤兵衛盛長は、滋目結(しげめゆひ)の直垂に、緋縅の鎧着て、三位の中将のさしも秘蔵せられたる、夜目無月毛(よめなしつきげ)にぞ乗られたる。」と書かれている。この童子鹿毛と夜目無月毛がどんな毛色なのかわからない。あるいは固有名詞なのだろうか。
ところで、武者たちの色彩感覚の素晴らしさはどうだろう。それを作った工人・職人たちの色彩感覚の素晴らしさはどうだろう。かつて知日派として知られたフランク・ギブニーは、日本を「職人を尊ぶ国」と称えていた。その国はいったいどこに行ったのだろう。

「平家物語」