人間は中高年ともなると、やたら好奇心やら向学心、探求心が出るものらしい。池波正太郎の「剣客商売」の主人公・秋山小兵衛は、青壮年期は剣の道一筋でその他のことに朴念仁であったが、道場を閉じて鐘淵の小さな家に隠居すると、人間への好奇心がやたらと高まり、次々とお節介にも事件に首を突っ込む。だからこの小説は面白い。しかし小兵衛は少年時代から剣の道を志し、「筋も良く」、天狗のような剣客となったわけである。
一般凡人は自分が何に向き、何に対して「筋が良い」のか分からぬまま、その時の生活に追われ、徒に齢を重ね、やがて突然論語を読み出し、歴史書を繙き、無謀にもカントやショーペンハウェルやヘーゲルやらに挑み、芭蕉や蕪村、一茶に親しみ、季語に興味を持って自ら俳句をひねり、博覧強記に憧れ、些末な雑学知識に夢中となり、相手の迷惑も顧みず仕入れた蘊蓄を披瀝してしまう。また落語のご隠居のように、問われるままに「首長(くびなが)鳥」が「鶴」と呼ばれるようになった由来まで語って聞かせるのである。
しかしやんぬるかな、これらの向学心、探求心、求道の意欲は、あまりにも遅きに失した。これを、思考が柔らかく可能性も豊かな十代、二十代の頃にやっておれば、みな秋山小兵衛やIPS細胞の山中伸弥教授のようになれたやも知らん。「筋が良」ければ高名な哲学教授にも人気時代小説家にも、名優にも、 名人と賞される噺家にもなれたやも知らん。
この中高年の好奇心や探求心、向学心を象徴し、蘊蓄の餓えを癒やす好個の見「本」が、森本哲郎の「吾輩も猫である」であろう。蘊蓄症(コンチクショウでもチクノウショウでもない)と言うべきか。
主役で語り手の猫の名は小次郎という。アビシニアンとシャムの混血で、吉川英治「宮本武蔵」の美剣士・佐々木小次郎からの命名である。同じ家には他にアメリカンショートヘアの武蔵、雑種の和猫・伊織、大和の三匹の猫がいる。武蔵も伊織も「宮本武蔵」から名付けられたが、大和は黒猫なので、某宅配便そのままに命名されたのだ。
この家にはこれらの猫の他、「先生」と呼ばれる文筆業の主人、その老妻、主人の秘書の月子(近くの団地から通勤してくる)、二階に住む主人の長男の嫁・谷子、その二人の息子・混と沌が住んでいる。
さらにこの家に出入りして主人の話相手をつとめる人物に、パソコンで句会を主催する団塊世代の新聞記者・山吹君、主人の知人で五十代半ばの古書マニア・川中島夫、小出版社の社長で大の犬好きを自認する丸石統(すべる)、濁流出版社の専属カメラマンで好人物の紋付一馬、山吹の後輩記者で文化部の布施定(さだむ)、和尚の真坂尊那(まさかそんな)などがいる。
なぜか主人の長男は登場しないが、おそらく仕事に追われ、寝に帰るだけの深夜の帰宅で、彼等の団欒、会話に加わることが皆無で、居ないも同然なのだろう。
さて、主人、山吹君、川中島夫、丸石統らは、哲学雑学俳句に短歌、世界史日本史文明史、孔子論語に老子荘子、杜甫李白に漢詩に酒に肴に博覧強記、その仕込み蓄えたる蘊蓄で、相手の蘊蓄をやり込め撃破し、得意になった上に尊敬を勝ち得ようという連中なのである。
そんな彼等の滑稽さを冷ややかに嘲笑うのが主人公の小次郎と、主人の秘書となって二十年、いつの間にやら無遠慮になり、先生である主人にあれやこれやと指図をし、バクダンの異名を持つ月子なのだ。
小次郎は主人たちのやりとりを、猫的冷ややかな無関心を装い、耳をそばだて薄目を開けて観察している。彼はなかなか好奇心、探求心が旺盛なのだ。すでにこの家にやってきて十年、人間にすれば早くも中高年なのである。彼は大した物知りで、知性と教養の持ち主だが、これは主人、山吹君、川中島夫、丸石統らのやりとりからの耳学問と、主人の書斎と廊下まで溢れ出した膨大な書籍の背表紙や、主人が頁を開いたまま放ってある本や、その怜悧な観察眼から得たものなのである。
「いやはや、人間ほど唯我独尊を地でいってる動物は、ほかにはおるまい。だから人間がおのれを定義するならホモ・スペルブス(傲慢な動物)と呼んだらよかろう。彼らがそう自認しないなら、吾輩が代わってそう命名してやる。」
小次郎は主人の書斎で、椅子や書棚の上にうずくまり、暢気にうつらうつらしながら、すでに猫的悟達の域にある。彼の悟達とは、人間とは呆れるばかりに愚かで、何と度しがたい存在なのだろうということだ。猫族の方が彼等よりよほどに上等である。まあ猫族にも、図々しく食いしん坊で無神経な伊織や、意気地なしで頭の悪い大和のようなガキもいるけれど、と小次郎は思うのだ。
小次郎は真坂和尚が好きだ。和尚が言う。…坐忘、坐忘。それに限る。荘子が説くように坐って全てを忘れることだ。猫を見とれば腹など立つまい。大いに修行の助けになる。猫は毎日、坐忘を実践しておる。生まれながらにして荘子の弟子だ…。「よく、じーっと坐っとるやろ。無心の境地で。つまらんこと考えんと」
真坂尊那老師と主人の会話は続く。主人「そういや、蕪村にこんな句があったな。〈夕皃(ゆふがほ)の花噛ム猫や余所(よそ)ごゝろ〉。なかなかいい句だろ。日暮れの庭の隅かどこかで猫が夕顔の花を噛んでいるんだが、その様子が現ともつかず、夢ともつかず、心そこにないといった風情さ。この余所ごころというのが、きみのいう坐忘かね」
「おう、そら、じつにうまい句やな。そのとおりや。猫は花を噛んどることも忘れて心を遊ばせとるわけやろ。蕪村という俳人は、じつにええとこ見とるな」
「彼も坊主だったんだぜ。のちに還俗(げんぞく)して俳諧の宗匠になったんだ」
「そうやろなあ。目のつけどころが違うわ。俗念を払おうと思うとるから、猫のそんな姿を見て自分を反省しとるわけや」
ちなみにパソコン句会を主催するサイバー俳人・山吹君は、俳号を山吹蓑笠(さりゅう)という。
「蓑笠とはミノとカサでしょう。そのミノですよ。山吹といや、すぐミノを思い出すじゃないですか」
「ははあ、太田道灌の逸話だな」
「そう、鷹狩りに出た道灌が雨に遭い、貧しい小屋に寄って蓑を借りようとしたら、若い女が無言で山吹の一枝を差しだした、というあの伝説です。〈七重八重花はさけどもやまぶきのみ(実)のひとつだになきぞ悲しき〉…」
ふうんと主人が感心してみせると、山吹蓑笠は得意になり、それこそカサにかかってさらに講釈する。
「もともと蓑笠というのは中国の詩人・柳宗元の有名な詩に使われているんですわ。〈孤舟蓑笠の翁、独り釣る寒江の雪〉ってね。以来、〈寒江独釣(かんこうどくちょう)〉いうのが、格好の画題になった。先生のとこにも、たしかそんな軸があったはずですよ。雪の中で小舟に坐り、釣り糸を垂れる翁(おう)。ぼくはこの濁世(だくせ)で、そんな翁を気取ってるんです」
「ダクセじゃない。ジョクセというんだ。けど、蓑笠とパソコンじゃ、まったくつり合わんな。いっそのことマウスとしたらどうだい。山吹マウス。ハハハハ」と、主人はそう冷やかして反撃に出た。
…いやはや。
「吾輩も猫である」はほぼ全編にわたり、中高年の好奇心、探求心、教養に対する向学心をそそり、哲学、雑学、俳句に短歌、文学、歴史、漢詩などの話柄に蘊蓄を傾け、それを酒の肴のように嗜むのである。猫の小次郎は薄目を開けた傍観者でありながら、鋭くもよい批評家であり、よい案内役なのだ。そして主人たちのやりとりを「フン」と嗤っている。実に楽しくも、ためになる本ではないか。
森本哲郎「吾輩も猫である」(PHP文芸文庫)