それはいつの年のことだったか、はっきりと覚えていない。東京競馬場で東京優駿(日本ダービー)が行われる日、私は中山競馬場にいた。その年は東京競馬場でのダービーデーのイベントを受注できなかった。中山競馬場でのダービー当日場外発売日イベントは受注した。これはメディアホールでの「レース展望」が決め手となった。当然、いつもレース展望に出ていただく競馬記者や競馬評論家の皆さんは、全員東京競馬場に臨んでいる。
私が展望への出演をお願いしたのは、地方競馬の伝説的な現役騎手や調教師だったのである。中央競馬にしか興味のない人はあまり知るまいが、この方たちはまさに伝説的なプロフェッショナルなのであった。実はこのレース展望の提案には自信があった。
競馬について不案内な方たちのために、大雑把に説明する。競馬には中央競馬(JRA)と地方競馬(公営競馬)がある。
JRAの競馬場はメインの四場として東京、中山、京都、阪神があり、ダービーやオークス、天皇賞、有馬記念など、グレードⅠ(GⅠ)レースは、全てこの四場で開催される。地方場として中京、札幌、函館、福島、新潟、小倉の六場がある。中央競馬では芝コースを保護するため、十分な期間をおいて交互に開催される。地方場の開催はメインの四場が休みになる夏競馬が多い。中央競馬のレースは、正月の金杯は例外となるが土日に開催される。騎手がレースで着用する勝負服は、それぞれの馬主が登録したもので決まっており、騎手はその騎乗馬によってそれに着替える。
一方、地方公営競馬は原則として土日を除き平日の毎日、どこかの公営競馬場で開催されている。そのため芝の定着が困難で、ダートコースのみなのである。東京およびその近郊の大井、川崎、船橋、浦和の四場の競馬が南関東公営競馬である。騎手の勝負服は、それぞれの騎手がデビュー時に登録したもので、どのレースもそれで臨む。
中央競馬の日本ダービーの日、当然南関東公営競馬は非開催である。私はかねて憧れ、お会いしたかった川崎の佐々木竹見騎手と、大井の高橋三郎騎手に電話を入れた。どちらもレース展望への出演を快諾してくれ、さらに大井の赤間清松調教師もどうかと勧めてくれた。私はすぐ赤間師に電話を入れ、ご了解をいただいたのである。JRAに提案の際、念を押された。「本当に佐々木竹見さんや高橋三郎さんがOKしてくれたの?」
当時はまだ中央競馬と地方公営競馬の交流レースや、公営から中央への騎手の移籍は今のようではなかった。
佐々木、高橋は当時現役ながらすでに偉大な伝説的な騎手であり、引退し調教師になっていた赤間も素晴らしい騎手であった。特に佐々木竹見の勝利度数は実に驚異的で、6000勝をはるかに超えていたのである。
佐々木竹見は川崎競馬の所属騎手で、サブちゃんこと高橋三郎は大井競馬の所属だった。赤間清松は伝説の名伯楽・小暮嘉久の弟子で、高橋三郎は赤間の弟弟子である。さすがにその頃、佐々木竹見も高橋三郎も、年齢的なことや怪我などから騎乗数と勝ち鞍が減り、彼等に替わり活きの良い船橋の石崎隆之や桑島孝春、大井の的場文男らが台頭して、リーディングを競っていた。
私が競馬を始めた頃は、中央競馬と地方競馬の違いすら知らなかった。やがてハイセイコーの登場が、競馬には二つの舞台があることを教えてくれたのである。そして中央の加賀武見、地方の佐々木竹見という「二人のタケミ」の存在を知った。両人とも青森の出身であり、インタビューなどを聞くと強い青森訛りなのである。二人は中央競馬と地方競馬と、所属・活躍の舞台が全く異なるものの、ともに勝ちまくっていた印象が強い。しかし二人のタケミは勝ち鞍の数に圧倒的な差があった。やがて私は知った。中央競馬は常にマスコミに取り上げられて華やかな印象があり、一方地方競馬にはほとんど陽が当たらぬ地味な舞台なのであった。賞金額の差も大きい。
騎手の勝利度数の記録で言えば、中央には引退して調教師になった保田隆芳の1295勝、75年に引退した野平祐二の1339勝の記録があった。加賀は88年引退し1357勝を記録した。この中央競馬の生涯勝利度数は後に増沢末夫の2016勝、岡部幸雄の2943勝、武豊の3600勝超え(全く凄い数字である)と、次々に更新されていった。
さて中山のイベントに出ていただいた時、佐々木竹見はすでに伝説の騎手であった。彼は「鉄人」と呼ばれ、ストイックなまでに厳しい自己管理が伝えられていた。その騎乗技術は「竹見マジック」と称されていた。レースはほとんどゲートを出遅れることなく、常に先行好位置につけ、あるいは柔らかく逃げ、無理することなく先頭に立つのだった。深いダート、中央に比しコーナーがきつい小回りと、狭いコース幅、短い直線。発馬の出遅れは決定的な不利であり、地方ではなかなか差しや追い込みは難しいのである。
ファンの間では「烏が鳴かぬ日はあっても、竹見が勝たぬ日はない」と言われていた。例えば朝から竹見が負け続けても、最終レースでは必ずきちっと勝ち、「竹見を買い続ければ損をしない、元が取れる」と言われたものであった。
彼はフェアプレイの人としても知られていた。私は何度か強引と思われるような佐々木竹見の凄まじいレースぶりを目撃したが、それは勝負師としての容赦のない厳しさなのであった。こうして南関東公営競馬のリーディングジョッキーに十七度輝いたのである。
佐々木竹見の勝利度数は前人未踏の記録であった。1960年、川崎の青野四郎厩舎からデビュー。勝負服は「赤、黄山形一文字」。2001年の引退時、生涯勝利度数7153勝。海外でも7000勝を超えたのは竹見を含め八人しかいない(そのうちの一人は一万勝を超えている)。まさに「世界の竹見」なのである。
竹見の記録を書き換えるのは実に至難であろう。可能性があるとすれば地方競馬の騎手ばかりである。地方競馬で一流の実績を残して中央に移籍する騎手の場合、若くして軽く4000勝超えを達成し、中央移籍後に五十歳半ば以上までトップ騎手として乗り続けて3000勝超えをしなければなるまい。あの安藤勝己の笠松所属時代3299勝、小牧太の兵庫所属時代3376勝、岩田康誠の兵庫所属時代3078勝、内田博幸の大井所属時代3153勝である。佐々木竹見の7153勝がいかに凄い記録かわかるであろう。もし武豊が公営競馬でデビューし、平日の毎日をレースに臨んでいたならば、唯一この記録を超え得たに違いない。
ちなみに、佐々木竹見が66年に樹立した年間勝利度数505勝の日本記録は、2006年に内田博幸が524勝を達成するまで、四十年間塗り替えられなかったのである。
佐々木竹見の勝負服「赤、黄山形一文字」は永久保存とされた。いま川崎競馬場の誘導馬の乗り手たちは、この勝負服を身に付けて登場している。
ファンから「サブちゃん」と呼ばれ親しまれていた高橋三郎は、これまた伝説や逸話にことかかぬ騎手であった。勝負服は「緑、白山形一本輪」。彼は小暮嘉久厩舎から1963年にデビューし、二十年目に3000勝を達成した。浦和の桜花賞でミスファラリスに騎乗し、先頭に躍り出るとゴール前の直線で突然馬上から姿を消した、とスタンドの観客の目には見えた。鞍がずれたのである。しかしサブちゃんは、サーカスの馬の曲乗りのようにその橫腹にしがみつき、ゴール後に落馬し優勝した(このときの映像が見たくて捜したが、いまだその機会を得ない)。私はこの高橋三郎騎手のファンであった。
彼はハイセイコーの大井時代に二度騎乗し、特別レースと青雲賞を勝っている。この後ハイセイコーは鳴り物入りで中央に移籍した。高橋三郎は東京ダービーをダイエイモンド(底力血統のシカンブル系ファラモンドの子だが、それほど強い馬とも思えなかった)で勝ち、ハイセイコーの子キングハイセイコー(かなり強い馬であった)で羽田盃と東京ダービーを制し、これまたアウトランセイコーでも羽田盃と東京ダービーを勝った。ちなみにアウトランセイコーは父親にうり二つで、実に荒々しい馬であった。さらにサブちゃんはカツアールで帝王賞と大井記念を勝ち、この馬は後に中央に移籍するとハイセイコーの子カツラノハイセイコを破って宝塚記念に勝っている。どうもサブちゃんはハイセイコーに縁があるらしい。
彼は1997年に引退したが、その生涯勝利度数は3975勝である。
赤間清松の騎手時代の勝負服は「胴緑、白星散らし」。先述したように赤間は高橋三郎ともども小暮嘉久の門下であった。ちなみに、年齢から陰りの見え始めた佐々木竹見や高橋三郎に替わって、後に「大井の帝王」と呼ばれるようになった的場文男も、小暮の最後の弟子であった。
赤間騎手は南関東公営の「大レースに滅法強い」ことで知られていた。三冠馬のゴールデンリボーをはじめ、東京ダービーに6勝、羽田盃に7勝、東京大賞典に3勝を挙げ、これらのレース史上の最多勝記録を持つ。肝が据わり、勝負度胸が良いのだろう。84年に引退したが生涯勝利度数は2885勝である。
さて、調教師となってからの赤間の実績は、カウンテスアップやジョージモナーク、オリオンザサンクス等の一流馬も育てたが、なにより弟子の内田博幸を、鉄拳制裁も伴う厳しさで超一流騎手に育てあげたことである。内田は南関東公営競馬のナンバーワンとなり、中央競馬に移籍後、ここでもリーディングジョッキーになったのだ。
さて、「鉄人」佐々木竹見は「哲人」のような眼差しをしていた。しかしその強い青森訛りと相まって、優しげで温厚で実に気さくな人なのであった。
「サブちゃん」こと高橋三郎も、岩手訛りの抜けぬ木訥な語り口で、ユーモアあふれる話し手であった。また赤間清松師は非常に厳しい人と聞いていたが、これまた訥々とした宮城訛りで、実に温厚な人柄に思われた。
彼等はいずれも中央競馬の騎手の騎乗技術やその特徴に精通し、出走馬の血統、馬体から推察される距離適性、馬場やコースの得手不得手や癖などに驚くほど詳しかった。どうも常に強い関心を持って見ていたものらしい。騎手心理や騎乗馬の騎乗法など、◎○▲×などの印を離れても、実に興味深いレース展望が楽しめたものである。