おそらくディープインパクトは現時点での世界最強馬の一頭であることは間違いない。無論、様々な要因において他馬と同一条件下で戦うことができ、また彼に向いた展開になった場合の話しである。
凱旋門賞の戦前、馬場状態が懸念された。ディープインパクトのように跳びが綺麗で、 豪快で、かつストライドが大きな馬は、概して重馬場を苦手とする。滑るのである。また重馬場は力がいるからだ。この日、懸念された馬場状態は快晴・良馬場であった。
しかし、ディープインパクトはゴール前でいつもの豪快な伸びを欠いた。考えられる要因の一つは、欧州の馬場は力を要求されるということである。イギリスのエプソム競馬場はターフ(芝)というよりグラース(草)と呼ばれるように芝が深く、風が吹くとなびくほどである。フランスのロンシャン競馬場の芝も、人間の踝が隠れるほどに深い。日本のように短く刈り込まれてはいない。つまり欧州の芝コースは重馬場のように、あるいはダートコースのように力を要求されるのである。これがディープインパクトから、あの飛ぶかのような瞬発力を奪ったのではないか。無論仮説である。
欧州の大レースは、一見さほどスピードも無さそうな馬が、力で他馬をねじ伏せるように勝つことが多い。いわゆる底力血統の底力である。例えばその典型がサドラーズウェルズであった。無論サンデーサイレンス血統のディープインパクトもスピード豊かな瞬発力に溢れた底力血統なのだが、ここに言う底力とは、いわゆる瞬発力を発揮できない馬場で要求される底力なのである。
ディープインパクトは440キロ台の小柄で細身の馬である。59.5キロの斤量は意外にこたえたのではないか。勝ったレイルリンクは3歳馬で、56キロであった。
俗に1キロ斤量がちがうと、1馬身から1馬身半の差がつくと言われている。若い3歳牡馬と、実の入った4歳以上の牡馬には斤量でハンデを設けるのである。さらに牝馬は軽い斤量となる。また古馬でも6歳以上になると斤量が軽くなる。このように年齢、牡牝で斤量を定めることを別定重量という。
凱旋門賞では過去10年、3歳馬が8勝しており、このレースにおける56キロの斤量がいかに有利かを示している。ちなみに今年の結果を含めて、過去13戦で56キロを背負った3歳馬が11勝していることになる。
パドックから馬場に出てきたディープインパクトを見て、牝馬のように腹が巻き上がっていると感じた。腹が巻き上がるとは、お腹が後躯に向けてキュっと細く絞り上がっていることをいう。それはライバル視されていたハリケーンランやシロッコの馬体と比較して明らかだった。少し絞り過ぎではないのか。絞り過ぎると長距離ではスタミナ切れを起こす。また腹の巻き上がった馬体には59.5キロはきつかろう。
ディープインパクトは発馬の下手な馬である。いつも出遅れることが多い。これまでの日本での多頭数のレースでは、自然後方を進むことが多かった。外を周りながら他馬に前を塞がれることなく、4コーナー手前で進出し、直線で圧倒的な瞬発力と理想的なランニングフォームで、一気に豪快に他馬を引き離していった。しかもその脚を長く使えるのである。
しかし今回の凱旋門賞では珍しく良いスタートを切った。しかも少頭数である。たちまち先頭を窺う2番手につけてしまった。直線に向ってから先頭に立つのも早かった。むしろ早過ぎたのである。ディープインパクトはこのようなレース展開を経験したことがない。彼ははるか前を行く何頭もの馬たちを抜き去ることに、無性の喜びを感じていた馬である。今回は前にいるはずの目標が全くいなかった。抜き去る快感を味わえぬことに戸惑いを覚えているうちに、若いレイルリンクに抜き去られて衝撃を受けた。その焦りの中を6歳牝馬のプライドにも抜かれたのである。しかも、いつものように脚が上がらない、身体が前に進まない、差し返せない。…そしてそこがゴールだった。
レース後に引き揚げてくるディープインパクトは、自らの不甲斐なさに茫然自失の体であった。そんなディープインパクトを初めて見た。彼は終始伏し目がちであった。
(この一文は2006年10月3日に書かれたものです。)